2015年11月29日日曜日

【香港】香港の正体


新疆ウイグル自治区から香港に飛んだ。1ヶ月の中国ビザしか取っていなかったので、香港に来てビザをリセット(ビザに関しては国外のような扱いになっている)するためである。

カラカラに乾燥したウイグルから香港の空港に降り立ったときに感じた蒸し暑さは今でも忘れない。海の近さにまず身体が反応した。

香港では現地で働いている友人の家に5日間ほど滞在することになった。
タシュクルガンからカシュガルに戻って再び体調が悪くなり、香港では下痢を治すために一度胃腸を空っぽに!!と思って少しだけ断食するまでに至った(腹が減りすぎて1日半でやめた)。そしてわけのわからん路上の漢方茶なども味方につけながらなんとか胃腸をなだめることに成功したというのがその5日間のハイライトである。


加えて香港ではほとんど観光地化した漁村、大澳(Tai O)に行ったり、


銀色のミニマムサイズの高床式の家が密集している漁村

船から見たりなんかできる

テラスの大きさがかっこいいと思った家




さらに犬や猫を飼うスペースがないから普及したと思われる「熱帯魚飼育ブーム」の聖地、旺角(Mong Kok)の金魚街に行ったりした。日本の熱帯魚屋より安くて楽しい夜の街だった。


熱帯魚のこと水族って呼ぶっぽい(左は水槽に入れる偽物の草とか屋さん)


僕の好きな熱帯魚、コリドラスが「花鼠」という名で売られていた


会社帰りに熱帯魚探しに勤しむ中年の男



しかし今回は香港について最も印象に残っていることを書こうと思う。
それは僕の知らなかった、「香港の正体」である。


結論から言うと、香港の正体は「山」だった。



僕は香港に対して、イギリスに統治されていた場所で、都会で、高層の建物が密集し、夜の街はごちゃごちゃし...というイメージを抱いていた。東京の新宿みたいな感じかなあと。

たしかに多くの人は高層タワーに住んでいて、

圧巻であった


トラム(二階建て路線バス)から眺める街はイメージと大きく違わず、




百万ドルの夜景は見なかったがイギリス統治時代の遺産が残っていたりする。






しかし夜の道を歩いていると、なんだかすごい道が現れた。


ものすごい坂!


こういう急な坂がたくさんあるのである。
このときはまだ「坂すごい」くらいにしか考えていなかったのだが、
ある高台(寺)から街を見たときの写真がこれである。


高層ビル群の後ろに聳える山々「香港の正体」


新宿と同じなんかじゃなかった。手前の高層ビル群までは新宿と言っても良いが、奥にハッキリと香港の正体が現れている。

香港は山なのである。そんな山の中に、がんばって高層ビルを建てまくっているところに香港の面白さがあるのである。

ためしに香港島の航空写真を見てみる。





↑ このくらい寄って見るとまあビルの多い都会だなという感じ




↑ちょっと引くと緑が増えてきた。島なので海ももちろん



↑香港等全体、島で、山だ。手つかずの部分が多い。



↑香港全体(黄色い線から上が中国の深圳)。半分以上緑で、手のつけられない土地になっているのであった。


このように前から僕の持っていた香港=都会というイメージは崩れさっていった。

また山でできているからこそ、こういう部分↓のデザインが課題でもあり、可能性を持っているのではないか。


宅地の間に垣間見える「山」の顔


そして専門家でないのでよくわかっていないが、海と山が生む風に対して高層ビル群がちゃんと対応できているかどうか怪しかった。つまりビル風・山風の調整である。
というのも香港では高層マンションに住んでいてもほとんど窓を開けず、空調によって空気を調節しているらしいと聞いたからである。
個人的には、香港が山である限り永遠に無視できないこういった問題を孕む住環境は、いつか限界がくる気がする...

以下は地上の風通しを確保するために何層分か抜いているビル。結構香港では見られるデザインで、これは変わってるなあと思った。しかしビルの中は別問題である。









次回から四川省編へ突入。
2008年四川大地震の被害にあった集落に行きました。


2015年11月28日土曜日

【タシュクルガン】タジク族の村まとめ

お久しぶりです。

タシュクルガンについてはこれまでに初日に訪問したダンディというじいさんの家、そして次の日に呼ばれたダンディの親戚の結婚式の話をした。

タシュクルガンは2泊しかしなかったので詳細な調査とはいかなかったが、タジク族の村について考えた少しのことをまとめとして書いておこう。


今回もトルファンの時と同様に
ⅰ.どこに住むか?(立地)
ⅱ.どう住むか?(家)

という分け方で書いてみる。

ⅰ.どこに住むか(立地)



僕が訪れたのはタシュクルガン・タジク自治県の中心「タシュクルガン」であり、その他にもこの県には山の中にいくつかの村があるはずでる。
タシュクルガンは、西側の中央アジア(〇〇スタン系の国)の山の間から来る水がつくるデルタ状の形をしている。さらに東側は南から北へ流れていく河の通り道であることがわかる。(というより、湿地帯になっていたからここらへんに水が溜まっているのかもしれない。正直ネットで探す限りでは川の名前もどれがどれだかよくわからない。)

雨が少ない山の中(標高3200m)で、このように水が豊富な場所が栄えるのは集落の常である。



タシュクルガン・タジク自治県の中心、タシュクルガン



そして以前書いたように、タジク族居住区はこの町のさらにメインロード(少ない漢民族はここに住んでいると思われる)から歩いて15~20分くらいのところからはじまる。


タシュクルガン中心部の大体のゾーニング。


今回集落の立地について考察するのは石造りの家が建てられるタジク族居住区である。



□丘の上の墓場



さて、ダンディの家のまわりを歩いていると、小高い丘に出くわした。高さ20mくらいと思われたその丘を登ってみると(標高が高いため嘘みたいにすぐ息が切れるのでゆっくり)、そこは墓だった。



丘の上の墓。タジク族の墓であろう、ムスリムの形式である。


雪解け水が流れる丘の下と違って、丘の上は荒涼として低木がチラホラ見えるだけの地である。
丘から見下すと、丘-川-農地-家屋-山というここでの生活の詰め合わせ風景が見えた。


丘-川-農地-家屋-山


川の水が行き届かないこの小高い丘には、家が建てられていない。
実見した範囲だけでも同じような丘がもう一つあったが、そこも家は建てられず、墓となっていた。
つまり、雨の少ないこの地で、水から離れた丘の上に家を建てることには無理があったのではないだろうか。

さらに自らの体で感じたことは、風がものすごく強い。周りに木もなく荒涼とした丘の上には、歩くのがやっとというくらいの強い風がビュンビュン吹いていた。これも丘の上に家を建てない理由であろう。wikipediaによるとこの地の夏の最高平均気温は32度だが、冬になると最低平均気温-39度となるのだから、冬の風は死活問題、地獄である。

こうして農地にも宅地にも使えない丘たちは、必然的に墓場として利用される運命にあったのであろう。


「丘の上の荒涼感」(住めない場所)-「低地の豊穣感」(住める場所)のコントラスト



□丘より下の使い方



それでは、丘より下の低地にはどこにでも家を建てられるのか。
その中にもルールがありはしないかと、丘から見下ろしてみる...







どうやら、丘の下の低地の中でも、家は少しだけ高い土地に位置しているようであった。
そして一番低いところが農地になっている。

川に近すぎても増水などの危険があり、かといって丘に上がりすぎても風が強く、不毛である。その中庸が人間にとってはいつも「住み良い場所」となるのだ。ほとんどの家は風対策として防風林(ポプラ)を植えていた。


□立地まとめ


土地の使い方(タジク族居住区の一部、川の跡や川らしきがたくさんある)


タジク族居住区の断面図(タシュクルガンにてスケッチ)


結論:

・タシュクルガンは、標高の高い山の中で二つの方向から水がやってくる場所で、このあたりで農業がしやすい場所である。

・石造りの家が建つタジク族居住地では、幾本もの川によってつくられた微地形を使い分けている。それは丘→墓場、微高地→家、低地→農地という使い分けである。家が微高地に立つことになったのは「風」から逃げて「水」にできるだけ近づくという生活の必要から来ている。

・多くの家が防風林としてポプラを植え、家々は離れている。


メモ:
・現在多くのタジク族がこの居住区にすんでいるのは確かだが、遊牧民のパオの広がる湿地帯との歴史的、地理的な関係性を無視することはもちろんできない。もしかしたら「二地点居住」の生活があったかもしれない。

・タジク族居住区と湿地帯の境目のあたりに古いゾロアスター教遺跡(訪問したがよくわからなかった)、さらに石頭城という城の遺跡(ネット上では1000年以上前という情報も)が存在する


ゾロアスター教遺跡。タシュクルガンには元々ゾロアスター教が存在した。

丘の上の墓に鳥が作られていた。
ゾロアスター教の神、アフラ=マズダを想起させたが考え過ぎか。



ⅱ.どう住むか(家)



□天窓のある部屋


家については前々回のダンディ関連の家がほとんどすべてなのであまり付け足す情報はないが、結婚式でもメインの部屋として使われていた天窓のある部屋は、外観からもわかるのであった。


ガラスが嵌め込まれている


こちらは飛び出ている天窓


前々回の記事にも書いた通り、この天窓は遊牧民のパオの天窓と似ている。
そしてトルファンで散々書いた「天上への指向」をどちらも持っている。


パオの天窓・石積みの家の天窓の比較


少なくとも石積みの家ではこの天窓のある部屋が民家の最も重要部分であった。



□材料


家や外壁に使われる石は、ゴツゴツしたものや川の流れに削られた丸石、両方あったが、もともとは同じ石だったのだろう。石は丘の上や川辺にたくさん落ちていたので無料である。


ゴツゴツ

丸石


もともと敷地にあっただろう巨石を、塀の一部として取り込んでいる事例もあった。


中央の巨石を中心に塀を構成してゆく



家屋はこのような石積みに泥を塗って外壁とするが、塀や家畜小屋には日干しレンガも使われていた。

中の構造、および装飾や建具にはポプラの木を使っている(前々回の記事「天国の村、タジクの家」参照)。


また、石積みの家は湿地帯にもわずかに確認することができた。

結構古そう。周りに家畜がめちゃくちゃいた



中国のどの地域でもおなじみであるが、近頃は安価であろうレンガが導入される傾向にある。(石はタダだが、おそらく人手がレンガの何倍もかかる)
基礎だけの家を発見し、これから建てられる家の材料が周囲に用意されていた。これらが最近の住宅の材料だろう。




レンガに変わってもいまだに石を使っているようである。
これら新レンガ住宅は壁体の構造を完全にレンガが対応するので、所々に存在したポプラが使われる部分が少なくなっていると思われる。
これは小さな変化と思われるかもしれないが、空間内部にとっては大きな変化であるかもしれない。柱が装飾、結婚式に置いても有効に使われていたからである。


材料の変化でおそらく内部はこう変わる(予想)。


ポプラの梁の上に石をのせている

柱が空間をつくる(結婚式)



トルファンで見られた鉄骨は、パオの構造に使われる細い鉄の棒以外には確認できなかった。山の中までの輸送コストがかかるからだと考えられる。


結論:

・タジク族の家の最も重要な装置は天窓である。天窓がある部屋は結婚式ではメイン会場として使われ、実際装飾も他の部屋より充実している。

・天窓は湿地帯に広がる遊牧民のパオとの共通点である。

・石積みに使われる石はゴツゴツしたものと丸石とどちらもあり。湿地帯にもこのような石積みの家はある。

・石積みの家の材料はレンガにシフトしてきているが、部分的に石も使われ続けている様子。

・レンガ住宅化及ぼす変化は建設コストだけではなく、ポプラを使わなくなることによる内部装飾の消滅かもしれない。

・鉄骨が入ってきていないらしい(少なくともタジク住居には見られない)


メモ:
・こちらも遊牧民のパオとの歴史的関係を理解しなければ説明できないことが多い。

・ダンディの家などに見られた外観の赤と黒の装飾は、見られない家もあったのでなにか親族的なつながりという可能性もあるが、詳細不明。



最後に、この「天国の村」を体現するお気に入りの写真を載せて新疆ウイグル自治区の記事を終わりにしよう。


菜の花畑をゆく老人(タジク族居住区)



草を食む牛たち(湿地帯)