2015年5月3日日曜日

断絶した未来—『第四間氷期』

安部公房『第四間氷期』を読んだ。

23年間生きてきて自分の中にべっとりとこびりついた"保守の心"を告発され、ズタズタにされた気分だ。
裏表紙のあらすじはこうなっている。

現在にとって未来とは何か? 文明の行きつく先にあらわれる未来は天国か地獄か? 万能の電子頭脳に平凡な中年男の未来を予言させようとしたことに端を発して事態は急転直下、つぎつぎと意外な方向へ展開してゆき、やがて機会は人類の苛酷な未来を語りだすのであった……。薔薇色の未来を盲信して現在に安住しているものを痛烈に告発し、衝撃へと投げやる異色のSF長編。

個人的に安部公房の作品の中でもかなり面白かった。「事業」や「鉛の卵」、「人肉食用反対陳情団と三人の紳士たち」、「月に飛んだノミの話」などの短編の中に見られるイメージが思い起こされる。

以下少しネタバレになるかもしれない。

未来の人類の姿を機械によって予言させようとすると、想像を絶する未来—陸地の減少に伴う水棲人類開発、やがて海に戻っていく人類たちの姿が語られ、そして最後に遺跡としての陸地の都市=東京が、水棲人の目から描かれる。そのような、「断絶した未来」を聞いて、我々はそれに耐えられるか……
安部公房の特徴である日常SF(ぼくがかってに呼んでいる、はじめから設定がぶっ飛んでいるSFではなく、日常の中からあたかもあり得るもののように科学的にぶっ飛んでいきながらいつも日常とのつながりを忘れさせないようなSF)としての完成度がものすごく高い。正直、怖いぐらいだ。

この小説の持つテーマ——人間の保守性と革新性、についての「告発」が、ものすごく痛かった。予言機械を開発しておきながら、圧倒的な未来予想を受け入れることができない博士を、しんからの保守主義者だと告発する人々。自分のことを言われているみたいで辛い。誰にでも、保守的な面はあるし、もれなく自分にも、そういう点が多分にあることに気付いているからだ。

ここではあらゆる未来を描いた小説、それがユートピアであれディストピアであれ、それらを超越し、相対化した未来を描いている。「あとがき」で安部公房はこう言う。

 真の未来は、おそらく、その価値判断をこえた、断絶の向うに、「もの」のように現れるのだと思う。(「あとがき」より)

それは、たとえば室町時代の人が現代を見たときに地獄と思おうと天国と思おうと、それを判断する資格がないということ。それを判断するのは現在であるということ。
同じように未来は現在によって裁かれるのではなく、逆に未来が現在を裁く。それがどんなに発展していようと、現在の日常の連続性の中から見たら、それは異質なものに見え、苦悩をひきおこすものでしかない。

安部公房の小説で「あとがき」があるのは珍しいのではないか。それだけ伝えることがあったのだと思うし、同時に「断絶した未来」の残酷さからは、彼でさえ逃れられないことを弁明する必要があったのではないか。

 読者に、未来の残酷さとの対決をせまり、苦悩と緊張をよびさまし、内部の対話を誘発することが出来れば、それでこの小説の目的は一応はたされたのだ。(「あとがき」より)

未来を、「じゃあどうするの」といわれてもわからない。そこが、本音だろう。
「断絶した未来」が本来的に残酷なものであるとしても、いずれ未来はやってくるのだ。

それでもこの誘発は少なくともぼくにとっては有意義なものであった。

自分の問題に引き寄せて見れば、たとえば都市化していくことの、是非。
保存され、テーマパーク化される、伝統建築、伝統集落。未来を受け入れられず、保守的なデザイン、提案に留まってしまう、あるいは革新性を装った発想と、その実現に耐えられるかどうかの不安……。

誰もがもっている保守主義者としての一面を、切り裂くような告発だった。

日常性というこのもっとも平凡な秩序にこそ、もっとも大きな罪があることを、はっきり自覚しなければならないのである。(「あとがき」より)

小説とは時にこんなにも厳しいものなのか。


過去の「保存」はどうだ。
この小説の中でも、水棲人はやがて陸地人の一部を保存しはじめる。
「鉛の卵」という短編では、体内に葉緑体を搭載した植物人間が、かつての人類を保存している……と思いきや最後の最後に立場が逆転する。(これは『第四間氷期』の後の世界にありえそうな話でもある)
ハクスリーの『すばらしい新世界』でも、かつての人類を野蛮なものとして隔離し、保存地区のようなところに住まわせている。

それと同じように、我々も今、例えば中国の少数民族とその建物、文化を、観光地として保存している。彼らが、金を持つようになって、自分たちの生活に近づこうとすることを残念がるのが本音なんだろう。

それはもしかしたら、すでに「断絶した未来」に行ってしまった自分たちを、どうにかして過去につなぎとめておくための標なのかもしれない。

人を殺したら悪いのは、それが相手の肉体を奪うからではなく、未来を奪うからなんだ。(p.264)

とすると、我々はそういう人たちをすでに殺しかけていると言えるのかもしれない。

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