2016年4月12日火曜日

【萝卜寨】四川大地震で壊れたチャン族の村

また3ヶ月も空いてしまいました。
3月末に日本に帰国して、1年にわたる休学期間を終えました。
海外に8ヶ月ほどいたこの年。最後は中東の方へ行っておりました。

冬眠中であったこのブログも再開します。旅は帰ったら終わりでなく、フィードバックがそれと同じくらい大事なのです。
まだ中国からぜんぜん抜け出せていませんが、ゆっくりと書いていきます...


壊れた村は、4500年村だった


さて、前回は四川大地震で壊れなかったチャン族の村を紹介したが、今回はおなじチャン族の村でも、壊れてしまい、集落の移住を余儀なくされた村の話を。こちらも滞在は1,2時間ほどだったのであまり詳細には書けないが。

その村は「萝卜寨」という村で、「大根の村」という意味。その理由はわからないが、大根がよく取れたのだろうか。

集落入り口周辺からの景色。標高が高く肌寒かった


こちらの記事は、四川大地震から11日後に書かれたこの村の被害を伝えるもので、ここに書かれているようにこの村は4500年前から人が居住してきた、いわば4500年村。そして「世界最大で最古の黄土を建築材料とする少数民族集落」と書かれている。
記事には地震でほとんどの家が廃墟となり、1080人の住民のうち42人が死亡したと書かれている。甚大な被害である。
基本情報:百度百科の「萝卜寨」のページ



大根村の位置↓



海抜1970mに位置しており、前回の壊れなかった村「桃坪羌寨」に比べると川からえらく遠く、山の上に位置している。


航空写真でわかるように、四川大地震によって住めなくなってしまっ古い集落(赤いピンの真上)の東側に新しい居住区があり、人々はあの地震以来こちらに移住している。


そして現在、「壊れた村」は道などの一部修復がなされ、「雲の上の村」として観光開発が進められているのであった。


黄土を使う家




桃坪羌寨」では家の基本的な材料は石で、そこに木の梁を渡し堅牢なものとしていた。
しかし廃墟になったこの村(地震で壊れたままの家も残っている)、少し歩いてみると塀や家には石に加えて「泥」が使われている。
そのためあきらかに「桃坪羌寨」とは違う景観で、気持ちよかった。



下地にワラがのぞく泥の塀


黄土の版築壁の廃墟


正確には、「黄土」であるらしい。このブログを読んでいただいた人にはわかるが、黄土はヤオトン住居の地帯(黄土高原)で登場した。僕にとっては懐かしい色。


ひとつだけ廃墟の家に入れた。


大きく壊れてはいないが廃墟になっていた家


このように石積みと黄土が組合わさっている壁が多かった。


内部壁面と木造の柱、貫

中に入ってみると、土塗りの内壁から少し離れて木造軸組の構造が入れ子上に独立している。土壁の質感は日本建築のようでもあった。
桃坪羌寨」でみた家の構造は立派な分厚い石壁に梁を架け渡すものだったから、明らかな違いが見られる。


天井部分


黄土は、おそらく構造的に石より弱いのだろう。壁に木の梁をそのまま載せることができなかったのかもしれない。


旧集落を歩いて廻ると、地震で壊れてそのままになっているところも多くあった。


黄土の家とRCの家。どちらも屋根がひしゃげている


石、日干しレンガ、黄土が混ざっている。草ぼうぼう



構造が残ったもの


こちらも木材の軸組のみが残り、壁体と独立していたのだと考えられる。

以上のように、この村の多くの建物が、ほとんど壊れなかった「桃坪羌寨」とほど近いにも関わらず壊れてしまったのには、建築材料として黄土を利用していることからくるのではないかと考えられる。黄土を利用することで壁体と構造体が分離し、全体としてガッチリとしていた「桃坪羌寨」の家に比べ壊れやすい(壁のみ壊れること多々あり)のだと、少ない見学時間ながら思った。


4500年村の「安全」


4500年という歳月の中で、彼らは大地震を何度か経験してきているはずだろう。それでも、この場所に集落をつくることにはやはり意味があったのだろう。
その大きい理由にここでもやはり「防御のため=安全」があるだろう。




こちらは旧集落の模型。「桃坪羌寨」のように「碉楼」が立っている。

そして上の地図で見ていただくとわかるように、この集落は山の尾根上に位置し、かなり見渡しが良い。


旧集落展望所からの景色①


旧集落展望所からの景色②


この立地だと敵が攻めて来てもすぐわかるのではないだろうか。

いま、21世紀においての集落の安全とは、「災害に対しての安全」がほとんどであるが、歴史的にはそれよりも「敵からの安全」ということの方が大事だったのかもしれない。
古くから続く集落の立地を考える上でそういう想像力を忘れてはならない。


ちなみにここはチャン族の「王府」が置かれていたらしく、チャン族の中での「都」的な場所だったらしい。再現された王府はなんだかものすごいものだった...


復元されたチャン族の王府。泊まれるらしい


内部。王様の椅子に動物の毛皮が敷かれている。どこまで本当かわからないが




といったところで、この集落の成り立ちを予想するに
安全のために、山の尾根上に密集して立地(王府が置かれた)。
→この付近には、採石場となりうる岩山がなかったため、石だけでなく黄土を建築材料として使った。
→壁体と構造の分離した家がつくられ、石造+木の梁である「桃坪羌寨」に比べ地震に弱いものとなった。



新居住区の現在


すぐ東側に移った新居住区の家はというと、


RC造で、大通り沿いは宿泊施設を併設しているものが多かった。
なんとか「チャン族感」を出そうと羊の角のような模様を描いたり、壁にいろいろと描いたりしているのは面白かったが、やはりそうなってしまうか〜という感じは否めない。



建設中の家とその主人


住居には、廃墟になった家から木材を再利用している例もあった。


ここの人たちは、たくさんのものを失って、残されたものや歴史を集めて、いまだにここに住もうとしていた。


何がこの地に彼らをとどまらせているのか考えると、単純に農業かもしれない。


旧集落-新集落の位置、谷〜集落の標高断面



旧集落の農地は残っている。農地から新集落へ戻るおばあさんの背中



次回より東チベット編に突入します。

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