2016年6月9日木曜日

【ラルンガルゴンパ】スリバチの修行地

長距離バスで17時間、標高4200mへ



成都から長距離バスで、途中山崩れの通行止め待ちなどしながら、およそ17時間くらいかけて、「ラルンガルゴンパ」という場所に来た。チベット仏教ニンマ派最大の学校、というか町らしい。

成都の標高が大体500mで、ここが4200mくらいだから、一気に3500mも登ってきたわけだ。そして、高山地帯初挑戦の僕。高山病を避けるためにはだんだんと高度を上げていくのが一番なのに、なんだか途中に行きたい町もないからエイッと来てしまったのである。(薬はばっちりである)

朝早く成都を出て、バスに揺られて着いたのは真っ暗な町。標高が高いため寒くて、足元がぬかるんでいて、街灯もあまりない。バスで会った日本語が喋れる陳さんと、巡礼の為に来たという家族たちと夜メシを食べる。あまり味のしない麺だったことを覚えている。高山病はそんなに感じない。

バスの降車地から、乗り合いバンでホテルに向かった。ここには一つぐらいしかホテルがないらしいと成都で聞いていたので、みんなそこへ向かうらしい。さらに標高を上げる。暗闇の中に、どうやらたくさんの建物が建っている。窓から漏れる明かりを見るに、かなりの密度らしい。

着いたのは「ラルンガル賓館」というホテル。予約などしていない。と、受付のチベット人の女の人が「部屋は空いていない」と言う。
おいおいおい...ここで泊まれなかったら僕は標高4200mのチベット人の町でどこに行けばいいんだ...助けてくれ...暗いし人が多いし心なしか頭も痛くなってきた...
どうやら僕の行った時期がなにか巡礼のある時期だったらしく、家族や団体で宿を予約して泊まっているひとがたくさんいるようであった。
同じく予約を取っていなかった陳さんと交渉を重ねると、屋上のドミトリーなら空きがあるという。もう何でも良いから寝させてほしかったので、そこに泊まる事に。

部屋は屋上にテントで壁と屋根を付け、4,50の2段ベッドがずらと並ぶ場所だった。チベット仏教の格好をした修行者?たちがほとんどの中、大きな荷物を持って自分のベッドらしきにたどり着き、シャワーもないのでそのまま毛布に潜り込む。



朝5時くらい。
誰かの叫び声で目を覚ます。めちゃくちゃオソロシイ叫び声であった。どっかのベッドの誰かが叫んでいる。ああ僕はわけのわからない場所に来てしまった...と思いながらトイレに行く。そしてちょっと頭が痛い。

外を見ると、徐々に明るくなり始める風景の中に、ひたすらにお経が響いている。こんな朝から、町が鳴っている。屋上でぼーっと聞いていたが、寒いし、いよいよおそろしくなり、またもベッドに潜り込んだ。




目覚めればそこは異境



7時か8時くらいだったか、目覚めたら陳さんも起きていた。
頭が痛すぎる。これが高山病らしい。
飲んでいる高山病の薬に加えて頭痛薬を飲んだ。

明るくなって、町はさらに大きく鳴っていた。この町は、全体がチベット仏教の聖地なのだ。見たことのない異境であった。



ラルンガルゴンパ全景。中央が学校。周りに広がる小屋はすべて僧侶の家。



ニンマ派最大の僧院、ラルンガルゴンパ(喇荣五明佛学院)は、上の写真のように、すり鉢地形に広がる赤い町だった。中央の大きな建物が学校(寺)で、周りの小さな小屋はすべて、僧侶が自ら建てた家である。
驚くべき事に、この寺の創建は1980年と、人がこのすり鉢に住み始めてからまだ40年も経っていない。どこかのラマ(=チベット仏教の僧侶)が寺を開き、このように拡大してきたのだという。基本的には修行者しか住んでおらず、近年は中国人観光客もチラホラ、といった感じである。日本人は一人だけ見た。


google earthでこの位置を見てみる。なんだか暗い航空写真しかなかったが。



ラルンガルゴンパのあるのは色達(セルタ)県。中心部の色達から20kmくらい離れたところにある。






3Dで近づいてみると、山ひだのなかに埋もれたように、孤立した町が見える。
一応太い道路は通っているが、周りには何もない。山の谷間にこんな町があるなんてちょっと信じられない。


なるほど、昨日の夜、バスから降りた時の足元のぬかるみは、このすり鉢の中心に降り立ったからなのであった。


町の断面ダイアグラム



このスリバチ状の領域を外れると、ポツポツと建物は見えるが、町は広がっていない。

隣の谷間をちらりとのぞく。建物はわずかにある。




スリバチの中心へ降りる


陳さんと朝食を食べに、スリバチの中心に降りていく。
途中すれ違うのも、ニンマ派のお坊さんばかり。




笑顔の陳さん。彼はこの周辺の建設現場の現場監督だという。これから働きにいくのでここでお別れ。一人になる。

とりあえず歩く。


中心の寺あたり。手前がおそらくここで暮らす修行者、私服の人たちは外部からやってきた巡礼者か。


お堂から溢れて入り口手前で座っている。やっぱり何か特別な日なのかしら。


お堂の中



本屋


教科書のようなものを、僧侶たちが販売している。
修行僧たちは子どもから大人まで幅広くいる。



なんだか混んでいるので、もう一度上まで登って全体を見る事に。




スリバチを見下ろす





スリバチの上には、塔のような場所があった。ここにも人がたくさん集まる。




チベット流の「五体投地」である。身体全体を地面にべたーっと投げ出して何度も祈る。並んでいる「それ用のマット」が使い込まれているのがわかる。




みんなマニ車を回しながら黙々と歩く


こちらはマニ車。塔やお堂のまわりにある。右回りにこの丸い筒を回しながら歩く。これで修行のための本を読んだことになるらしい。いやならないだろ...と思うけどなるらしい。ひたすらぐるぐる...

そして人々の手元には数珠。チベット人はいつも数珠を持っている。108個の玉を一つずつ数えながら、「オンマニパッ(ド)メーホン」と唱え続ける。これもマニ車みたいな効果があるらしい。文化が違いすぎてこわい。


チベットのばあさん。



柱や肘木や梁の装飾はかなり派手。塗料で模様を書いている。みどりの獅子?





さて、振り返り見下ろしてみる。


寺の拡大

スリバチの底の寺。ひときわ大きな建物で、明らかにこの町の中心。一部工事中だった。
写真右に通っている道がメインロードで、バスもここを通って来たのだと思われる。



人も建物も同じ色。


寺のテラスに修行僧が見える。
僧侶が着る袈裟、も建物も、同じあずき色をしている。これはニンマ派の色なのだと聞いた記憶もあるが、細かいことはわからない。とにかく同じあずき色で溢れた町である。
(ちなみにチベット仏教にはニンマ派の他にはサキャ派、カギュ派、ゲルク派と全部で4宗派があり、有名なダライ=ラマは最大宗派ゲルク派のトップ。)



疑いようもなく

写真中央の塔のとなりに泊まったホテルがある。



素晴らしい絶景ではあるのだが...


すぱっと切れている。なぜだかわからなかった。


ちょっと離れたところにまた小規模なまとまり。不思議だ。



ずっとおそろしさを感じていた。おそろしさというか、来てはいけない所に来てしまったような感覚。
この絶景を見ている日中も、ずっとお経や祈りの声が町中鳴り響いているからである。
修行僧たちは優しい人たちだが、明らかに邪魔者でしかない自分は、ここにいるべきではない。という感覚。平気で歩いている観光客もいたが、なんだか我慢ならない。

あと、ここでは未だに鳥葬をやっていて、それが見られるようだったのだが...約束した時間に約束した中国人が現れず、結局行けない事になってしまった。
鳥葬は屍体をハゲワシのような大きい鳥に食わせて葬る、というぞっとするがチベットでは伝統的な葬法だ。火葬をするには木が足りない、土葬をするには寒くて屍体が腐らないので、鳥葬が一番合理的なんだと聞いた。



とりあえずこのお経から離れたくて、スリバチの外れへと歩いていく。今日も泊まろうかと思ったが、宿をキャンセルして色達の町まで出よう。





タルチョというお経が書かれた五色の旗。チベット圏ならどこにでもある。
感覚としては絵馬みたいな感じなんだろうか。


外れの方に来ると、一人で瞑想している若い僧侶や、タルチョが大量にかけられた塔が、青空と高山の空気に映えている。

「千と千尋」的場面を発見。父・母が豚になってしまい悲しむ千尋を、そっと支えるハクのようだ↓


チベットの千尋とハク





修行者の家を観察する




やはり建物が気になる。
大量に建てられている修行者の家を観察しよう。




結構な傾斜地に段々とテラス状に建てられている。




こちらが典型的な家。
構造は一階が石orブロック造、二階はなんと、丸太小屋(井楼組)であった。
一階部分を傾斜地に石造で立ち上げ、その上に二階部分の土台を載せる。一階と二階は基本的には分離していると考えられる。時々土台を地面から支える柱もついていたり。


修行僧の家の典型的な構成


チベットといえば泥や石の四角い建築をイメージしていたけど、木造丸太小屋があるなんて驚いた。そしてあとからわかることだが、これこそ東チベットの民家の特徴だったのだ。
ここラルンガルゴンパの周囲には木材の取れる森がない。他の町から木材を運んで来ているに違いない。そしてそのコストゆえに修行僧たちの家は最小限の大きさで作られているんだろう。


一階部分-二階部分の詳細

石も同じ色で塗られている。

三層の家

見事な三層の家を発見。かっこいい。
下から石造、ブロック(レンガ?)造、丸太造。
ほとんどの家の窓はステンレスか何かの既製品で、都市から運ばれたもののようだ。そこがこの集落の新しさを物語っていたりする。




屋根と軒の部分スケッチ


小口を白塗りした垂木を二重に見せるのはチベット建築の常套手段である。
屋根はほとんど陸屋根で、①ビニール+砂や土(+雑草)と、②トタン+置き石(レンガ)の二種類見られた。②は傾斜が少しつく事がある。

ビニールを載せているということは雨が少し降るのだろう。


大きく二種類の屋根。土葺きの方が古いと思われる。



屋上庭園

こんな傾斜地なので、屋根を道のように使うことも考えられそうだが、見た限りでは屋根の上の活用は見られなかった。(イランでそういう集落を見た)



チベット初感<中心をもつこと>



はじめてのチベット文化圏で、おそろしい町に来てしまったわけだが、チベットのイメージとして「中心性」があるんじゃないかと考えた。それも、手元から町までさまざまなスケールで。

数珠-マニ車-塔-お堂-町、ここではすべてが中心を持って、グルグルと回転するイメージである。何か「全体性」に参画しているという感じを起こさせる。
宇宙の自転、公転のようなスケール感。


巨大マニ車。全体性への参画。僕も回しました。



そして言わずもがなチベット曼荼羅。


http://www.mandalamuseum.com/exhibit1.htmより



1980年にこの寺を開いたラマは、このスリバチ状の地形を明確な意図を持って選んだに違いない。


朝になると中心の寺に修行者たちは集まり、夕方になると、散っていく。

夕方、寺から出てくる人々。おのおの家へ散る。


集まり、散じる、朝夕の人の動き。



この町は、すべてが中心を向いている。ここに住むことすなわち全体性への参画。


窓がすべて中心を向いている家の群




オソロシイ町から脱出した僕は、色達に行くぎゅうぎゅう詰めのミニバスに乗り合わせた若い修行僧と話しながらそんなことを考えていた。

彼の手には夕日に照らされた「ポータブルマニ車」が延々と廻っていた。




2016年4月17日日曜日

【東チベット・準備編】地図を制する者は、旅を制す


東チベットとは、中国のチベット自治区を「西チベット」とした時に、その東側の自治区外の山地に拡がるチベット人たちの住むエリアを指す。(↓下の地図のオレンジ&赤の範囲)


wikipediaによるチベットの範囲。黄色がチベット自治区。黄色・オレンジ・赤が「チベット」と呼ばれる範囲で、地理的にはチベット高原の範囲とほぼ同じ。しかしインドやブータンなど(青い部分)も実質的にチベット文化圏と言える。


チベットの位置するチベット高原も、インドプレートがユーラシアプレートにぶつかってできたものである。平均高度は5000mだというが、それはもう日本に存在しない高さなのである。


いま、「チベット」という言葉にはやはり、危険でわけのわからない世界、というイメージが絡みついている(実際危険な目には一切遭わなかったが)。
旅に出る前、一度はそんなわけのわからない場所に行ってみたかったし、標高3,4000m以上の山の上に住む人たちはどんな生き方をしているか、ものすごく興味があったので、東チベットは中国旅行のハイライトのひとつとして考えていた。


予想をはるかに超えた場所だった。夢のような場所だった。自分がそこを旅していたことが信じられないくらい。


東チベットでは、チベット仏教はもちろんのこと、家をつくることと家族、大地との関係が非常に密接に感じられた。それだけ僕の生活は、大地や宗教や家、家族といった人間の基本的なところから離れてきているということなのだろうか。
少なくとも彼らの家は、僕がいま住んでいる東京の建売住宅とくらべものにならないくらい気持ちの良い、豊かな空間だった。
チベットの民家に関する研究はまだなかなか進んでいないようで、『チベット寺院・建築巡礼』(大岩昭之著)という本がチベット圏全体の建築をまとめているが、まだまだこれから知るべきことの多いエリアである。
僕は自分の訪問した家の情報しか書けないが、それも一定の価値あるものになるだろう。




さて僕が訪れたのは主に四川省の「カンゼ・チベット族自治州」というところである(最後のシャングリラだけは雲南省デチェン・チベット族自治州)。






チベット族自治州といっても住んでいるのはチベット族だけでなく漢民族や、前回の記事に出てきたチャン族などの少数民族もいる。
僕が向かったのはその中でもチベット色の濃い山地のエリアで、訪れた場所は、

成都→ラルン・ガル・ゴンパ→色達(セルタ)→甘孜(カンゼ)→道孚(タウ)→康定(カンディン)→稲城(ダオチェン)→雲南省シャングリラへ

である。気づけば7月21日~8月4日までの2週間を東チベット旅行に費やしていた。


各訪問地とルート。







当初、中国のビザなし滞在期間があと1週間ほどしかなかったので、急いで周るしかないと思っていたのだが、宿で情報を集めるうちに途中の康定という町でノービザからの観光ビザ取得ができるかもしれない、ということを知ったので滞在に余裕を持たせることができた。(取れなかったらやばかった)


このブログで僕はほとんど、旅行者に役立つ情報(宿の情報や、交通の事情)を書いてこなかった。それらはgoogleで検索すればヒットする日本人旅行者のブログにたくさん書いてあるし(実際僕も参考にしている)、僕の目的は情報提供ではなく、あくまで自分の見たもの考えたことをここに記録することだからである。


しかし、この東チベット旅行に関してだけは成都での情報収集が非常に役に立ったので、今回は準備編としてそれらを書いてみようと思う。



成都では「成都老宋青年国際旅舎(Hello Chengdu International Youth Hostel)」という宿に泊まった。旅行者の間では「旧シムズコージーゲストハウス」と呼ぶほうがなじみが深いらしいが、とにかく有名な安宿である。

最初成都に宿をとったとき、僕はあまり有名で日本人もたくさんいるような場所には行きたくないと思ったので(ひねくれ者)違う宿をとって、そこのオーナーに東チベットの情報を聞いていた。
しかしあまりにもざっくりとしか教えてくれず、非協力的だったため、やはり有名なこちらの宿に移った。


結果は大正解。まず、この宿で売られている地図がすごい。
この地図は宿の前オーナー夫妻が自身の旅行経験から作成した四川省地図で、裏には東チベット各地の情報、小地図が掲載されている。この地図がたしか15元で買える。



四川省の地図



20年後くらいにみたら泣けるだろう


東チベット各地の紹介。すごい密度!!


ネットの通じない世界でこれにどれだけ助けられたか。





僕はここで、「地図を制する者は、旅を制すという法則めいたものを学んだ。
大げさに聞こえるかもしれないが、何もわからず、どこに行ったら面白いものがあるのかわからなかった東チベット旅行の道程がどんどん見えてきたのを覚えている。
たぶん、おのれの立っている場所と向かう場所の関係性を確認すると、人は安心するんだろう。



そしてさらに、この宿に「住んでいる」日本人の60歳くらいの男性がいた。詳細は省くが、何度も東チベットに足を運んでいるベテランであった。
彼に夜な夜な指南していただいて(バスがどこに着くかとか、ビザがどこで取れるかとか、高山病についてとか、チベット仏教についてとか)、やっとこさ旅程を決めることができたのであった。


また宿には東チベット各地の写真や情報をまとめたファイルがずらっとあったので、本当に助かった。
ちなみに日本人旅行者も数人いた。同じ宿であったのは1か月以上中国を旅してきて初めてのことであった。中国人はたくさん日本にきているけど、中国に行こうという日本人はけっこう少ないのかしら。



宿にいたペットの豚




と、成都での滞在は、途中中国の設計事務所で働く日本人若手建築家と火鍋を食べたり(もちろん翌日下痢した)、金沙遺跡という3,000年前の遺跡に行ったり、はじめて3000m以上の高地に行くので(富士山登ったことないのです)高山病に備えて薬を買ったりして準備期間を過ごしたのであった。



成都に現れる偽ミッキー


成都のメシ屋


成都のメシ





→次回はラルン・ガル・ゴンパというチベット仏教の修行地の話を書きます。とても怖かった場所です...


2016年4月12日火曜日

【萝卜寨】四川大地震で壊れたチャン族の村

また3ヶ月も空いてしまいました。
3月末に日本に帰国して、1年にわたる休学期間を終えました。
海外に8ヶ月ほどいたこの年。最後は中東の方へ行っておりました。

冬眠中であったこのブログも再開します。旅は帰ったら終わりでなく、フィードバックがそれと同じくらい大事なのです。
まだ中国からぜんぜん抜け出せていませんが、ゆっくりと書いていきます...


壊れた村は、4500年村だった


さて、前回は四川大地震で壊れなかったチャン族の村を紹介したが、今回はおなじチャン族の村でも、壊れてしまい、集落の移住を余儀なくされた村の話を。こちらも滞在は1,2時間ほどだったのであまり詳細には書けないが。

その村は「萝卜寨」という村で、「大根の村」という意味。その理由はわからないが、大根がよく取れたのだろうか。

集落入り口周辺からの景色。標高が高く肌寒かった


こちらの記事は、四川大地震から11日後に書かれたこの村の被害を伝えるもので、ここに書かれているようにこの村は4500年前から人が居住してきた、いわば4500年村。そして「世界最大で最古の黄土を建築材料とする少数民族集落」と書かれている。
記事には地震でほとんどの家が廃墟となり、1080人の住民のうち42人が死亡したと書かれている。甚大な被害である。
基本情報:百度百科の「萝卜寨」のページ



大根村の位置↓



海抜1970mに位置しており、前回の壊れなかった村「桃坪羌寨」に比べると川からえらく遠く、山の上に位置している。


航空写真でわかるように、四川大地震によって住めなくなってしまっ古い集落(赤いピンの真上)の東側に新しい居住区があり、人々はあの地震以来こちらに移住している。


そして現在、「壊れた村」は道などの一部修復がなされ、「雲の上の村」として観光開発が進められているのであった。


黄土を使う家




桃坪羌寨」では家の基本的な材料は石で、そこに木の梁を渡し堅牢なものとしていた。
しかし廃墟になったこの村(地震で壊れたままの家も残っている)、少し歩いてみると塀や家には石に加えて「泥」が使われている。
そのためあきらかに「桃坪羌寨」とは違う景観で、気持ちよかった。



下地にワラがのぞく泥の塀


黄土の版築壁の廃墟


正確には、「黄土」であるらしい。このブログを読んでいただいた人にはわかるが、黄土はヤオトン住居の地帯(黄土高原)で登場した。僕にとっては懐かしい色。


ひとつだけ廃墟の家に入れた。


大きく壊れてはいないが廃墟になっていた家


このように石積みと黄土が組合わさっている壁が多かった。


内部壁面と木造の柱、貫

中に入ってみると、土塗りの内壁から少し離れて木造軸組の構造が入れ子上に独立している。土壁の質感は日本建築のようでもあった。
桃坪羌寨」でみた家の構造は立派な分厚い石壁に梁を架け渡すものだったから、明らかな違いが見られる。


天井部分


黄土は、おそらく構造的に石より弱いのだろう。壁に木の梁をそのまま載せることができなかったのかもしれない。


旧集落を歩いて廻ると、地震で壊れてそのままになっているところも多くあった。


黄土の家とRCの家。どちらも屋根がひしゃげている


石、日干しレンガ、黄土が混ざっている。草ぼうぼう



構造が残ったもの


こちらも木材の軸組のみが残り、壁体と独立していたのだと考えられる。

以上のように、この村の多くの建物が、ほとんど壊れなかった「桃坪羌寨」とほど近いにも関わらず壊れてしまったのには、建築材料として黄土を利用していることからくるのではないかと考えられる。黄土を利用することで壁体と構造体が分離し、全体としてガッチリとしていた「桃坪羌寨」の家に比べ壊れやすい(壁のみ壊れること多々あり)のだと、少ない見学時間ながら思った。


4500年村の「安全」


4500年という歳月の中で、彼らは大地震を何度か経験してきているはずだろう。それでも、この場所に集落をつくることにはやはり意味があったのだろう。
その大きい理由にここでもやはり「防御のため=安全」があるだろう。




こちらは旧集落の模型。「桃坪羌寨」のように「碉楼」が立っている。

そして上の地図で見ていただくとわかるように、この集落は山の尾根上に位置し、かなり見渡しが良い。


旧集落展望所からの景色①


旧集落展望所からの景色②


この立地だと敵が攻めて来てもすぐわかるのではないだろうか。

いま、21世紀においての集落の安全とは、「災害に対しての安全」がほとんどであるが、歴史的にはそれよりも「敵からの安全」ということの方が大事だったのかもしれない。
古くから続く集落の立地を考える上でそういう想像力を忘れてはならない。


ちなみにここはチャン族の「王府」が置かれていたらしく、チャン族の中での「都」的な場所だったらしい。再現された王府はなんだかものすごいものだった...


復元されたチャン族の王府。泊まれるらしい


内部。王様の椅子に動物の毛皮が敷かれている。どこまで本当かわからないが




といったところで、この集落の成り立ちを予想するに
安全のために、山の尾根上に密集して立地(王府が置かれた)。
→この付近には、採石場となりうる岩山がなかったため、石だけでなく黄土を建築材料として使った。
→壁体と構造の分離した家がつくられ、石造+木の梁である「桃坪羌寨」に比べ地震に弱いものとなった。



新居住区の現在


すぐ東側に移った新居住区の家はというと、


RC造で、大通り沿いは宿泊施設を併設しているものが多かった。
なんとか「チャン族感」を出そうと羊の角のような模様を描いたり、壁にいろいろと描いたりしているのは面白かったが、やはりそうなってしまうか〜という感じは否めない。



建設中の家とその主人


住居には、廃墟になった家から木材を再利用している例もあった。


ここの人たちは、たくさんのものを失って、残されたものや歴史を集めて、いまだにここに住もうとしていた。


何がこの地に彼らをとどまらせているのか考えると、単純に農業かもしれない。


旧集落-新集落の位置、谷〜集落の標高断面



旧集落の農地は残っている。農地から新集落へ戻るおばあさんの背中



次回より東チベット編に突入します。