□平遥へ
ヤオトンを十分堪能した後、三門峡から列車で7時間ほどかけ、平遥(ピンヤオ)という場所に来た。
この近くの太原という町が僕の留学生の友達の故郷で、その地元の友達4人が、初対面にもかかわらず2,3日ここらへんを色々と連れて行ってくれた。とてもありがたかった。
さて平遥も三門峡と同じく黄土高原上に位置しており、現在世界遺産ともなっている平遥古城という城郭都市が残っているところである。
世界遺産と言うと観光客でいっぱい、財布から逃げていくお金も数知れず…という苦い経験をしてきているのだけど、ここ平遥はそれでも素晴らしいと言わざるを得ない場所であった。
平遥古城は明代(1368-1644)から清代(1644-1912)末まで山西商人の拠点であり、金融の町として発展していたらしい。20世紀後半になんやかんやで金融業務がうまく行かなくなって貧困地域になり、再開発がされなかったために14世紀の明代はじめにつくられた町が残ることになった、というなんだか良いのか悪いのかよくわからない場所である。
□大邸宅見学
その清代末期まで栄えた金融屋さん(票号というらしい)は一家で行っており、この家族による大豪邸がこの付近にいくつかあった。
こちらは古城に行くまえに寄った梁家大院という300年前くらいの清代の大邸宅。
中国感ある
基本的に構造が木の柱と梁、壁は古いレンガである「磚(せん)」によって作られている。
保存されている部分はどの建物も同じ感じで、あまり面白くなかった。
でも町のようなこの大邸宅に現在は他から来た人が住んでいるらしく、清代の建物に解放後の人々が勝手にレンガとかで増築して住みついてる感じは中々おもしろかった。
右上にちょっと見える屋根は清代の建物、その軒下に増築
しかしここではむしろ展示スペースにあった、漢代の家型模型に一番惹かれた。
漢代とはwikipediaによると大体紀元前206-紀元220年くらいなので、2000年前くらいのものということになる。
人柱の表現?かなり古いものだけど結構適当に展示されてる
側面にもなにやらの模様が
高床式の建物の基礎部分にはよくわからない生き物がいる。2階正面の4本柱には人っぽい彫刻がなされ、人柱を表してるのかしらと思わざるをえない。これについて詳しくはわからないけど、2000年前には生き物の犠牲や呪術的なものの上に建築が成り立っていたことを表現しているのだろう。
2階入り口と屋根には3羽の鳩っぽい鳥がいる。インドネシアの民家のレリーフにも屋根の上に鳥がいたことが思い出される…。昔、建築はただモノをつくるのではなく、大いに宗教的な意味を持っていたんだろう。そういうところに惹かれてしまうのである。
□千年村としての平遥古城
本題の平遥古城である。
位置は、中国の北東部。
西にリュイリャン山脈、東にタイハン山脈がそびえている。敵は南北からしか攻められない。
そしてもっと拡大すると、黄河の支流であるフェン河が近くを流れていることがわかる。
さらにフェン河の支流が城壁のすぐそばを流れている。
南側の堀は元々流れていた河川を利用したものと思われる。
非常に大きい。城壁は一周で6.2kmにもなるという。
城壁にのぼって見たメインロード。僕の中国のイメージはこんな感じでした。
古城は金融で栄える明代よりも前から人が住んでいた場所らしく、元の城壁は紀元前に作られたという。そして観光地化が進みつつも現在でも15万人が住んでいる。古い道教の寺や古代の県庁も残り、メインストリートには土産物屋が立ち並ぶが、ちょっと見渡せば老人たちがトランプやってたり、犬や子供たちが駆け回る生活が繰り広げられている。
つまり千年以上生活が持続している都市型の千年村と考えてよいだろう。
中国人は「ポーカー」という名前で日本で言う大富豪をやっている。
城壁内の一般住宅
普通の家も中国伝統の四合院(磚造の建物で中庭を囲む)であることが多い。こちらは中庭で家庭菜園をしている。
夜のメインストリートは綺麗にライトアップされている。
ここにはバーとかクラブとかも入っていた。ここで友達とビールを飲んでいたら、同じく旅行者の中国人の女の子たちと飲むことになって、病み上がりの僕はたくさん飲まされることになったけど楽しい思い出です。
□平遥古城にヤオトン技術を見る
僕がここで見たかったのは、長い歴史を持つ城郭都市が「黄土高原」という、これまで見たヤオトン集落と共通した環境を持つことの意味である。
つまりこの古城の中にヤオトンと通ずるものを見ることはできないか。それが発見できたら面白い。
それで延々歩いていると(このときも下痢だったので古城内の宿に3泊した)色々発見した。
例えば道教の寺(Qing Xu Guan Taoist Temple)。
基本的なお堂の構造は木軸+レンガである。
メインっぽいお堂。この中に神様の像がいました。
これもこれで、木造建築にレンガのズボンを履かせたみたいで面白い。
しかし裏庭の一番奥に行くと明らかな地上ヤオトンのお堂が建っていた。
お、出ました
位家溝村で見た道教の寺院と似ている、ヴォールトの組み合わせ。
この構法による断熱性能とかも説明板に書いてあった。この中にも道教の神様が祀られている。
さらに、昔の県庁だったという場所にも、同じようなお堂が。
正面
内部。少し西洋のロマネスクを感じる。
こちらではスケッチも書いたり。
この県庁には清の時代まで使われていた牢屋があり、そこも見てみると
こんな外観に
おお、見たことある!!
おお、カン!
横にちゃんとカマドがついたカン(ベッド)まである。これは僕が村で見てきた部屋と同じである。
また、城壁に登ったときに、門の近くにもヤオトン的な部分が。
以上のように、古くから都市的な平遥と、今も農村である張村・位家溝村には、黄土高原上に位置するという共通点を持つために非常に似ている構法・技術が使われていることを発見することができた。
□建築する意志 人工の黄土層
今回平遥古城について色々書いてきたけど、黄土高原にこの城郭都市が存在する意味についての極めつけが、城壁である。
実は僕が最初から最後まで感動しっぱなしだったのは、この城壁であった。4日間の滞在のうちの3日間はずっと壁を見ていた。
城壁外から見たカベ
平均高さ10m、下部の幅8-12m、上部の幅2.5-6m、総延長6.2kmの壁。
表面の磚がはがれている。これから修復するらしい
壁の上は歩けるようになっている。
説明板によると元は周の宣王の時代(紀元前827年-782年)に作られたのが始まりだという。実に2800年前…。
現在の城壁は明の1370年に築かれたとされているから、築600年以上である。
ところどころ、磚がはがれて黄土がむき出しになっている!
600年前にこの城壁をつくった人々は、黄土高原を壁に閉じ込めたのだと思った。
いま600年経って、劣化して、黄土があらわになっている。
なぜなら位家溝村で見たむき出しの黄土層は、これとそっくりなのだ。
位家溝村で見た天然黄土層
よく観察すると、この壁は一番外側に磚、そのなかに日干しレンガ、黄土が層になって固められている。
日干しレンガの層が見える
黄土も層になって固められている
作り方を博物館か何かで見たかったのに、訪ねてもそういう資料がどこにもなかったのは残念だったけど、断面図は大体こんな感じだろう。
この地に無尽蔵にある黄土を、人類の手で閉じ込めて、新たな自然を作り出すこと。
自然の再構築。
これこそ「建築する意志」と呼べるものであり、こういうものこそ「建築」である!
と、ちょっと夢のように、遥か彼方に思いを馳せる平遥での体験だった。