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2015年11月28日土曜日

【タシュクルガン】タジク族の村まとめ

お久しぶりです。

タシュクルガンについてはこれまでに初日に訪問したダンディというじいさんの家、そして次の日に呼ばれたダンディの親戚の結婚式の話をした。

タシュクルガンは2泊しかしなかったので詳細な調査とはいかなかったが、タジク族の村について考えた少しのことをまとめとして書いておこう。


今回もトルファンの時と同様に
ⅰ.どこに住むか?(立地)
ⅱ.どう住むか?(家)

という分け方で書いてみる。

ⅰ.どこに住むか(立地)



僕が訪れたのはタシュクルガン・タジク自治県の中心「タシュクルガン」であり、その他にもこの県には山の中にいくつかの村があるはずでる。
タシュクルガンは、西側の中央アジア(〇〇スタン系の国)の山の間から来る水がつくるデルタ状の形をしている。さらに東側は南から北へ流れていく河の通り道であることがわかる。(というより、湿地帯になっていたからここらへんに水が溜まっているのかもしれない。正直ネットで探す限りでは川の名前もどれがどれだかよくわからない。)

雨が少ない山の中(標高3200m)で、このように水が豊富な場所が栄えるのは集落の常である。



タシュクルガン・タジク自治県の中心、タシュクルガン



そして以前書いたように、タジク族居住区はこの町のさらにメインロード(少ない漢民族はここに住んでいると思われる)から歩いて15~20分くらいのところからはじまる。


タシュクルガン中心部の大体のゾーニング。


今回集落の立地について考察するのは石造りの家が建てられるタジク族居住区である。



□丘の上の墓場



さて、ダンディの家のまわりを歩いていると、小高い丘に出くわした。高さ20mくらいと思われたその丘を登ってみると(標高が高いため嘘みたいにすぐ息が切れるのでゆっくり)、そこは墓だった。



丘の上の墓。タジク族の墓であろう、ムスリムの形式である。


雪解け水が流れる丘の下と違って、丘の上は荒涼として低木がチラホラ見えるだけの地である。
丘から見下すと、丘-川-農地-家屋-山というここでの生活の詰め合わせ風景が見えた。


丘-川-農地-家屋-山


川の水が行き届かないこの小高い丘には、家が建てられていない。
実見した範囲だけでも同じような丘がもう一つあったが、そこも家は建てられず、墓となっていた。
つまり、雨の少ないこの地で、水から離れた丘の上に家を建てることには無理があったのではないだろうか。

さらに自らの体で感じたことは、風がものすごく強い。周りに木もなく荒涼とした丘の上には、歩くのがやっとというくらいの強い風がビュンビュン吹いていた。これも丘の上に家を建てない理由であろう。wikipediaによるとこの地の夏の最高平均気温は32度だが、冬になると最低平均気温-39度となるのだから、冬の風は死活問題、地獄である。

こうして農地にも宅地にも使えない丘たちは、必然的に墓場として利用される運命にあったのであろう。


「丘の上の荒涼感」(住めない場所)-「低地の豊穣感」(住める場所)のコントラスト



□丘より下の使い方



それでは、丘より下の低地にはどこにでも家を建てられるのか。
その中にもルールがありはしないかと、丘から見下ろしてみる...







どうやら、丘の下の低地の中でも、家は少しだけ高い土地に位置しているようであった。
そして一番低いところが農地になっている。

川に近すぎても増水などの危険があり、かといって丘に上がりすぎても風が強く、不毛である。その中庸が人間にとってはいつも「住み良い場所」となるのだ。ほとんどの家は風対策として防風林(ポプラ)を植えていた。


□立地まとめ


土地の使い方(タジク族居住区の一部、川の跡や川らしきがたくさんある)


タジク族居住区の断面図(タシュクルガンにてスケッチ)


結論:

・タシュクルガンは、標高の高い山の中で二つの方向から水がやってくる場所で、このあたりで農業がしやすい場所である。

・石造りの家が建つタジク族居住地では、幾本もの川によってつくられた微地形を使い分けている。それは丘→墓場、微高地→家、低地→農地という使い分けである。家が微高地に立つことになったのは「風」から逃げて「水」にできるだけ近づくという生活の必要から来ている。

・多くの家が防風林としてポプラを植え、家々は離れている。


メモ:
・現在多くのタジク族がこの居住区にすんでいるのは確かだが、遊牧民のパオの広がる湿地帯との歴史的、地理的な関係性を無視することはもちろんできない。もしかしたら「二地点居住」の生活があったかもしれない。

・タジク族居住区と湿地帯の境目のあたりに古いゾロアスター教遺跡(訪問したがよくわからなかった)、さらに石頭城という城の遺跡(ネット上では1000年以上前という情報も)が存在する


ゾロアスター教遺跡。タシュクルガンには元々ゾロアスター教が存在した。

丘の上の墓に鳥が作られていた。
ゾロアスター教の神、アフラ=マズダを想起させたが考え過ぎか。



ⅱ.どう住むか(家)



□天窓のある部屋


家については前々回のダンディ関連の家がほとんどすべてなのであまり付け足す情報はないが、結婚式でもメインの部屋として使われていた天窓のある部屋は、外観からもわかるのであった。


ガラスが嵌め込まれている


こちらは飛び出ている天窓


前々回の記事にも書いた通り、この天窓は遊牧民のパオの天窓と似ている。
そしてトルファンで散々書いた「天上への指向」をどちらも持っている。


パオの天窓・石積みの家の天窓の比較


少なくとも石積みの家ではこの天窓のある部屋が民家の最も重要部分であった。



□材料


家や外壁に使われる石は、ゴツゴツしたものや川の流れに削られた丸石、両方あったが、もともとは同じ石だったのだろう。石は丘の上や川辺にたくさん落ちていたので無料である。


ゴツゴツ

丸石


もともと敷地にあっただろう巨石を、塀の一部として取り込んでいる事例もあった。


中央の巨石を中心に塀を構成してゆく



家屋はこのような石積みに泥を塗って外壁とするが、塀や家畜小屋には日干しレンガも使われていた。

中の構造、および装飾や建具にはポプラの木を使っている(前々回の記事「天国の村、タジクの家」参照)。


また、石積みの家は湿地帯にもわずかに確認することができた。

結構古そう。周りに家畜がめちゃくちゃいた



中国のどの地域でもおなじみであるが、近頃は安価であろうレンガが導入される傾向にある。(石はタダだが、おそらく人手がレンガの何倍もかかる)
基礎だけの家を発見し、これから建てられる家の材料が周囲に用意されていた。これらが最近の住宅の材料だろう。




レンガに変わってもいまだに石を使っているようである。
これら新レンガ住宅は壁体の構造を完全にレンガが対応するので、所々に存在したポプラが使われる部分が少なくなっていると思われる。
これは小さな変化と思われるかもしれないが、空間内部にとっては大きな変化であるかもしれない。柱が装飾、結婚式に置いても有効に使われていたからである。


材料の変化でおそらく内部はこう変わる(予想)。


ポプラの梁の上に石をのせている

柱が空間をつくる(結婚式)



トルファンで見られた鉄骨は、パオの構造に使われる細い鉄の棒以外には確認できなかった。山の中までの輸送コストがかかるからだと考えられる。


結論:

・タジク族の家の最も重要な装置は天窓である。天窓がある部屋は結婚式ではメイン会場として使われ、実際装飾も他の部屋より充実している。

・天窓は湿地帯に広がる遊牧民のパオとの共通点である。

・石積みに使われる石はゴツゴツしたものと丸石とどちらもあり。湿地帯にもこのような石積みの家はある。

・石積みの家の材料はレンガにシフトしてきているが、部分的に石も使われ続けている様子。

・レンガ住宅化及ぼす変化は建設コストだけではなく、ポプラを使わなくなることによる内部装飾の消滅かもしれない。

・鉄骨が入ってきていないらしい(少なくともタジク住居には見られない)


メモ:
・こちらも遊牧民のパオとの歴史的関係を理解しなければ説明できないことが多い。

・ダンディの家などに見られた外観の赤と黒の装飾は、見られない家もあったのでなにか親族的なつながりという可能性もあるが、詳細不明。



最後に、この「天国の村」を体現するお気に入りの写真を載せて新疆ウイグル自治区の記事を終わりにしよう。


菜の花畑をゆく老人(タジク族居住区)



草を食む牛たち(湿地帯)

2015年10月20日火曜日

【タシュクルガン】タジク族の結婚式


タシュクルガン2日目。約束通り朝9時にダンディの家に行くと、ダンディともう一人のおじさんがやってきて、これからどこかに行くような雰囲気であった。

ダンディの家から歩いてどこかに向かう途中、コンクリート造のタジクの家も発見した。
色やトップの装飾などは統一してある。


奥が石積みの家、手前がコンクリートの家


静かな道を歩くおじさんふたり。基本的にジャケットをきめている



そして着いたのは、これまた同じようなタジク族の家であった。

右が連れて行かれた家。おなじみの石積み。



何やら人が集まり騒がしいあの"中心の部屋"に通される。するとそこは…


中心の部屋の一角。


柄物の透けた赤い布で、部屋の一部が分けられていた。
その奥には、若い男女が座っているらしい。
どうやら今日は、この二人の結婚式のようだ…。親族たちのさぞかし重大なイベントに、ダンディは昨日会ったばかりの薄汚い日本人の若者を連れてきてくれたのであった。
23歳であるから、日本の結婚式の経験さえほとんどない。


昨日の予想通り、この部屋はタジクの家にとってやはりもっとも重要で、儀式的な要素を持つ部屋だったと考えていいだろう。



こちらの天窓もイスラミックで凝っている。


とりあえず座っていろと言われ、観察していると続々と人が集まってくる。おそらくみんな親戚なのだろう。
僕は特にすることはないので(ダンディ以外とは本日初対面なわけだからわりと肩身は狭いのだ)観察しながらこの結婚式の一部始終を記録することにした。


彼らは新たな人がやってくると毎回タジク流の挨拶をする。
男同士は握手してその手にキスし、女同士は唇でキス、男と女の場合は男の右手の平に女がキス、若い男とおばさんの場合男のほほにおばさんがキス、といった感じで挨拶だけでも色々なパターンが見られて面白かった。

待っている間はみんなお茶と油菓子(味のないクッキー)、チョコなどを食べて喋っている。することのない僕は何杯もお茶をすする。


座っているおばさまたち


タジクのおばさんたちは円柱の帽子にスカーフを巻くというおそらく晴れ姿でやってきている。この色の違いに意味があるのかは知らないが、若い女性ほど派手な色使いであったような気もする。


次から次へとやってくるタジクの女たち。若い人はスカーフを巻いていなかったりもする。



別棟の部屋は男の控え室のような場所になっていた。ここでも再現のないお喋りが繰り広げられるが、僕にはなにひとつわからない。


オシャレな男たち


男はとくに民族衣装を着ているわけではなく、ジャケットにパンツ、帽子は必須でダンディな格好をしている。タバコを吸わない人がいないほどみんな吸っている。




...そうこうしていると軽トラックに乗せられてヤギがやってきた。




これはもしかして"ごちそう"というものだろうか。
ということはこのヤギが今から殺されるのかしら…。



予想はきれいに的中した。


まず、男たちが6匹ほどのヤギを小屋に入れ、何やらノートに書いて品評している。どのヤギを生け贄に捧げるのか選んでいた。



選ばれたヤギくん(羊っぽくも見えるがどっちだろうか)



しばらくすると2頭のヤギがあの部屋に連れてこられ、一族もみんな集合した。
そこでみんな両手を前に差し出し、中年の男性が何やらブツブツ唱えている。神への感謝の言葉と思われた。
みなで最後に声を合わせて感謝の儀式が終わると(アッラーと言っていた気がする)、ヤギたちは家の前に連れて行かれる。


地面に少し掘り込んだくぼみに首をあてがわれ、素早い手つきで鋭いナイフによって首を切られた。この作業は男のみが担当していた。

僕は全く知らない人の結婚式にて人生で初めてヤギの屠殺現場を目撃した男となった。
※動画も写真も撮ったけれどこういう場にあげるものでもないのでやめておこう


暴れるヤギを男たちが抑え、完全に死ぬと見事にどんどん皮をはいでいく。ナイフの切れ味は抜群だ。
興味津々に見つめる僕を見て、男たちも笑いながら張り切っている。
取り出された内臓はあまりにも綺麗だった。


しばらく解体ショーを眺めていると、あの部屋から軽快な音楽が聞こえてきた。
入ると部屋の真ん中で老若男女が踊っている。結婚式の宴である。


踊り手は入れかわり、立ちかわり。部屋に30人はいたかな。


女の叩く太鼓と男の吹く小さい笛による音楽が、日本の祭りの音楽に似ているなと思ったりした。

踊りの様子


部屋の中心を使って、踊りながら回り続ける。定型の踊りはなさそうで、両手を広げて踊っている。
(あとからネットで調べたら、タジク族の踊りは鷹?の踊りで、それはゾロアスター教の名残があるとかないとか書いてあった。)

昨日重要だと感じたあの部屋の使い方がこんなに間近に、しかも最も大事な日のひとつであろう結婚式において見られるとは。


結婚式における中心の部屋平面図と使われ方のメモ



解体班に戻ってみると、殺された計3頭のヤギの頭をガスバーナーであぶっていた(煮込むのだろう)。肉の処理には女も参加していた。

また部屋に行ってみると、新郎新婦が何やらボウルに入った小麦粉をかき混ぜていた。初めての共同作業、ケーキカットの用なものだと解釈した。


赤い布を頭にかけた女の人が新婦、その隣が新郎



他の部屋も覗いて見たら、こちらもゴージャスすぎる部屋があった。

布にまみれて眠るのだろう


一族の中には子供たちもいて、家の内外を走り回っている。一人の少女は僕に興味を示し、ずっとついてきた。
この少女とスイカを食べるなどして過ごす。

小さいながらもしっかり民族衣装



調理場から包丁の音が聞こえ始める。昼飯だ。

昼飯には透明な麺の入ったトマトベースの料理が出た。ありがたいことに部外者の僕にも提供された。牛肉、ジャガイモ、パクチー、白菜などが入っておりとても美味であった。

食べるタイミングはそれぞれ。


たしか手で食べた。

ヤギはいまさっき煮込み始めたばかり、焼いた頭もバラされ煮込まれていた。


さっき殺したヤギを煮込む


このスープを味見させてもらったら、僕にとってはヤギ臭が半端なくてキツかった。


そのあとなかなかヤギ肉料理は出てこなさそうなので、次の日の下界に戻るチケットを買いにいく、といってこの家をあとにした。

この家からはこんな景色が毎日見える。




2時間後くらいに結婚式の家に戻ってみると、なんともう会が終わっていた。
しかし挨拶しておこうと思って中に入ると、「飯食ったか?」と言われたので、「食ってない」と言うと、あのヤギ肉の入った「ポロ」(ピラフのようなもの)を食べさせてくれた。



スープは無理だったが、これはいままで食べたヤギ肉(羊肉)の中で一番美味くて、ちょっと感動した。数時間前まで生きていただけある。



その後ダンディはもう家に帰ったと思われたので、お礼をしに行った。最後までクールな男だった。ありがとう、写真おくるよ。


部屋の使い方をはじめ彼らの生活を空気で感じることができた、もう多分一生見ることはないだろうタジク族の結婚式の話でありました。





2015年9月28日月曜日

【トルファン】「くぼんだ地」の生き方(まとめ編)



トルファンの訪問をまとめる。正直わかり易すぎる「土着」というか、環境にもろに影響されていたところだったので、逆にどうまとめていいのやらと言った感じで悩んでいたけど、まあ書いてみようと思う。


まずこの「まとめ編」の目標は、
「トルファンの環境に対するウイグル人の住まい方を評価すること」
とする。そしてそれを

ⅰ 「くぼんだ地」のどこに住むか?(集落立地)
ⅱ 「くぼんだ地」でどう住むか?(家)

の二つに分けて書いていこうと思う


トルファンの環境は以下の図(再掲)のようなものだった。

トルファン環境ダイアグラム


そしてこの灼熱の地で住むためには
「水を得ること」「日差しを調整すること」「風を調整すること」が重要であろうと考える。



ⅰ 「くぼんだ地」のどこに住むか?(立地)




実は「交河故城」という前漢代(BC206-8)に存在した「車師国」の町の遺跡が、トルファン中心部から自転車で1時間くらい走ったところに残っている。

カラカラに干し上がった交河故城


交河故城の模型




上の模型のように、交わるふたつの河によって削られ残った孤島のような土地に、町がまるごとつくられていた。
この辺りはシルクロード沿いにあって、様々な民族が散らばっていたから、町を守ることが最優先されたはずである。さらに河はこの乾燥した土地において生きるために必要だったことは言うまでもない。2000年以上前のこの地においては「敵から身を守ること」という条件も必須であったことがわかるが、やはり「水を得ること」が大事であった。


現在のウイグルの家は川沿いではなく、人工の水路「カレーズ」沿いに多く残っている。これもまさに「水を得ること」の実現である。さらにカレーズ沿いにはポプラが植えられ「風を遮ること」も実現している。

カレーズは山から低地へと直線的に進むので、それに沿って直線的な村が構成される。おそらく一大事業であったので、多くが計画的に配置されたのだと考えられる(どのくらい古いのかは調査不足)。

一方現在の町の中心部はグリッド状に、カレーズのないところにつくられた。これは水道の発達によって可能になったもので、広い道路は車の交通に都合が良いのだろう。商業区はほとんどこの中心部にある。
しかし古い集落に比べると、水道に頼り切っていることは否めない。カレーズはきちんと手入れが行われ使い続けられれば、山の水の地下水なので涸れることはないはずである。
また古い集落がそのままの形を保てているのがこのカレーズのおかげ、とも言えるかもしれない。

ちなみに古い集落に住んでいるのはほぼウイグル人で、あとからやってきた漢民族は中心部に住んでいるようだ。
商業区である中心部とウイグル集落は航空写真でわかるように密接しているので、古い集落が孤立して過疎化していることはなかった。

古い集落(赤い点線)とその間には現在の中心部





結論:
・古い集落はカレーズ沿いにある。それは「水」「風」の二点からトルファンの環境条件によく合致している。

・ウイグル集落はカレーズに沿っているので直線的な構成をなす。

・水道の発達によってできた新しいグリッド状の町は、車交通に都合がよくトルファンの経済的な中心を形成している。

・万一インフラがダウンした時のことを考えると、ウイグル集落がカレーズを残して使い続けていることは懸命(お腹の弱い僕にしても飲み水として安全であった)。

・商業区である中心部とウイグル集落は密接しているので集落は過疎化していない。


メモ(いつかのさらなる調査へ向けて):
カレーズが集落立地を規定しているとすれば、この地にカレーズの計画がいつ行われたのか、そしてカレーズがどのような間隔で置かれたのか、計画者は誰か?を検討することによってさらに深く掘り下げられるはず。
さらに現在の中心部が以前どういう土地だったのかは調べる価値がある。




ⅱ 「くぼんだ地」でどう住むか?(家)



□家の特徴


ウイグルの家は季節による内部と外部の使い分けがまず第一の特徴であった。

書くことができた家の平面を、色分けして並べてみる。赤が家屋内部の居住空間、緑が家屋外部の居住空間(屋根やぶどう棚の下の空間)である。※スケールを合わせているわけでないので注意


図面を書いたウイグルの家の屋内・屋外居住空間



これを見ると、なんと外部を多くとっていることか、と改めて驚く。
家屋内部と同じくらいかそれ以上に、外部の居住空間を確保している。

この2つの居住空間(夏・冬)の違いは大きく「風をどうするか」ということであろう。

夏は、屋根で日差しを調整し、風を通し、ベッドを置いて家族皆で眠るのであった。
一方冬は、がっちりとしたレンガの壁によって風を遮った空間で眠る。

ウイグルの家は、夏と冬でまったく違う空間が使われている。ひとつの家に違う空間を併置し、人間が移動することによって住みこなしているのが面白いところであり、砂漠気候ならではの大胆さだがなかなか示唆的だ。我々はなにも一つの空間の中だけですべて考えなくてもいいんじゃないかと思わせてくれる。人間を動かすこともまた家のデザイン。


そして次に注目したのが、「浮いた屋根」。

「浮いた屋根」の部分断面図



この屋根の調整によって影を作りつつ光を取り入れ風も取り入れることができるという、ウイグルの発明であった。


そして最後に何度か登場した「天上への指向」。
これはまだ僕の憶測の域を出ないが、イスラム教徒であるウイグルの家には、どこか僕がモスクで見たものと通ずるところを感じた。この先の旅でムスリムたちの家を見る機会があるはずだから、これは可能性として書いておこう。



□家の材料


材料はほとんどのウイグル民家で共通している。

レンガ(家屋に焼成レンガ、塀や家畜小屋に日干しレンガが多い)…この土地に無尽蔵にある材料(地面と家の色が一緒)で、家屋はほぼレンガのみでつくられる。かつては日干しレンガのみで作られていたに違いない。

ポプラ…建材に使われる木材はほぼ100%ポプラ。屋根には細い枝も使われる。防風林としても植えられる。

鉄骨…ポプラに代わって柱や梁として使われている

筵(むしろ)…屋根材として。正確には何でできているかわからないが、葉っぱを編んだもの。

…レンガにならなかった泥は塗って使われることもある。


鉄骨を除くすべての材料は、この地で入手できるものであった。
また、ぶどう干し小屋、家畜小屋に関してもまったく同じ材料をつかっていた。

作り方については建設中の家は発見できなかったが、木造軸組ではないし、レンガを積んでいく作業であるから大人数や特別な技術は必要なく、プロでなくても建てられる作り方になっている。


日干しレンガから焼成レンガへの変化、そしてポプラから鉄骨への変化は、方法を変えずに可能なところだけ近代的材料へシフトしている点が評価できる。もし家屋がすべてRC造になったとしたら、上記の「浮いた屋根」による環境調整は容易ではないはずである。

ピチャンで見たこの家はこの状況をはっきりと提示してくれている。

屋根と柱を鉄骨にしたウイグル民家


一方中心部にはRC造による高層の建物ももちろん建てられるが、中国の他の都市でもそうであるように、低層の建物は多くレンガ造であった。
以下は僕が散々利用した(ウイグル美人の姉ちゃんが働く)食堂が一階に入っている建物であるが、上にぶどう干し小屋が乗っていた。

ぶどう干し小屋の乗る中心部の食堂



結論:
・ウイグル民家は、夏と冬をそれぞれ過ごすふたつの空間を持つ民家であり、人間が移動することを含めて環境に対しデザインされている。それは今も変わらない。

・光、風の調整のための「浮いた屋根」はこの地の環境に対する特筆すべき装置。
・家屋のつくりはモスクと通ずる「天上への指向」が感じられる。

・材料はほとんどのウイグル民家で同じで、可能な部分は近代的材料にシフトしている。→すべて変えないことで「浮いた屋根」などを失わない点が評価できる。

・中心部はRC造の高層もある中で、低層の建物はレンガ造が多いので基本的な作り方は民家とそう変わらない。ぶどう干し小屋が乗る場合もある。


メモ:
今回、言語上の理由で年代を聞くことができなかったが、レンガの寸法や積み方など細かい観察によって民家の編年的な変化を追える可能性がある。




最後に、以下はぶどう畑の下に潜り込んだ際の写真である。
このぶどうの下の空間に住もうとしたのがここトルファンの人たちではなかったか、と強く感じた。
家もぶどう干し小屋もぶどう畑も、どこか似ている、この「くぼんだ地」が生んだ空間なのであった。


ぶどう畑の下の空間=トルファンの原風景