2016年、あけましておめでとうございます。
現在日本にいます。今年もよろしくお願いします。
さて、2015年の暮れは台湾に1ヶ月半のインターンに行っていた。
圧倒的ブログ更新の遅れは明らかであるが、気長にやっていくので気長に見てもらいたい。
いまだに中国後半戦のメインである東チベットにたどりつかないが、今回は東チベットの前に訪れた、四川省の山間部(東チベットより西側)にある集落の話を。
少数民族「羌(チャン)族」の集落であるここは四川大地震の震源地にほど近い場所である。今回紹介する集落は地震で壊れずに残っていた。
次回、地震で壊れて集落移動をしたもう一つの集落を紹介する予定である。
チャン族はチベット系の民族で古代より歴史に登場する民族のようである。石造建築が得意でアニミズムなども残っている。そして派手な民族衣装を着ている。
チャン族の美女(このサイトより。各民族の説明あり)
今回の集落訪問は日本にいる中国人の友人の従兄弟(大学院で建築を勉強している)、そしてその友人の協力によった。
四川大地震
四川大地震は、2008年5月12日に中国四川省アバ・チベット族チャン族自治州汶川県というところで発生した地震である。マグニチュードは8.0(7.9という説も)で、wikipediaの情報によると被害は「死者は6万9197人、負傷者は37万4176人に上り、1万8222人がなおも行方不明」である。
(ちなみに簡単に比較はできないが東日本大震災はマグニチュード9.0、「死者は15,893人、重軽傷者は6,152人、警察に届出があった行方不明者は2,567人」である。)
地震の位置
オレンジ色の範囲が四川省(wikipediaの中文ページより)
このあたりは、インドプレートとユーラシアプレートの衝突地帯で、地震を引き起こす断層が多い場所である。
そもそもヒマラヤ山脈もチベット高原も、インドプレートが北に移動してきてユーラシアプレートに衝突、グングン地面を盛り上げてできた場所なのである。
赤い矢印の先が震源地
ここでそこまで難しいことを説明する気はない(できない)が、昨年のネパール大地震も同じくこのプレート境界で発生したものである。
出発前にいくつか中国の地図を手に入れており、その中に1996年までの地震の発生した場所をプロットしたものがある。
このサイトからいただいたもの
緑の○が紀元前780年〜紀元1900年までの地震、赤の○が紀元1901年〜1996年までの地震であるらしい。大きさは地震の規模であり、オレンジ色の帯が地震帯を表している。
この地図は面白くて、実は旅行前に訪問先を決めるのにも役立った。
このブログで書いたところでは、ヤオトンのあるあたりは昔は大きな地震が多かったが20世紀以降ほとんど揺れていなかったり、西の端のカシュガルも実は地震が多発していたり。
これから書く予定の東チベット(チベット高原の東端、四川省の西部)にも地震帯がたくさんある。
さらに台湾は真っ赤である。日本も真っ赤になるだろう。
ここで地震帯がどうの、とか書ける知識もないので、地震についてはこのあたりにしておこう。
とにかく、四川大地震は地震の多発する場所で起きた地震であり、そういう場所に住んでいた人はどんな家に暮らしている(いた)のか、というところが僕の興味なのである。
災害の多い場所に住む人は時々起こる災害で家族や家を失くしてしまう。それは大変なことだけれど、同時に長江だってメコン川だってガンジス川だって、この地面の「盛り上がり」によって生まれたもので、人々の生活、そして文明を作り出した要因なのである。人々が「危ない場所」から離れないのにはこういった側面があるからに違いない。人は「おいしい部分」(河や土の恵み)を享受しつつ、身を守らなければならない。そこで住む家や村の作り方を工夫する。
桃坪羌寨の位置と観光地
今回紹介する村は「桃坪羌寨」といって、四川大地震による被害は受けたものの、集落自体は壊れることなく今も人が住み続けている場所である。
さらにここには集落のすぐ隣に集落を「真似た」観光施設がつくられ、観光客が訪れる場所にもなっている。
位置はこんな感じで↓
ピンの立っているところの真上にある大きいエリアが観光地エリア、そのすぐ北西にあるのが古い集落である。
数10km東に行けば四川盆地である山間部で、谷間に集落を形成している。
行く途中にみた大地震の震源地あたり。7年経っても山が崩れたまま残っていた。
集落の隣の観光ゾーン。
この観光施設の建物は結構よくできている。一階に店が入っており、土産屋やレストランになっている。集落からここに働きにくる人も多いのだろう。
ところどころコンクリートの柱で構造をもったりしているが、基本的に伝統的なチャン族の集落と同じような見た目になっている。
集落のつくり
さて、観光地エリアの北西部にある古くからの集落へと入っていく。
ちなみにここの見学にもチケットが必要だった。チャン族の生活は続いているが観光地になっていて、人の住んでいない家は中に入って見学ができるようになっている。
上の航空写真のように、川沿いの場所に、川に直行する谷ラインの先端に古い集落は位置している。集落の隣に農地はないので、川を挟んで西側に見える農地がここの人々の農地だろうか。
集落全体
そして岩山の先端にへばりついている。この岩山は家々に使う石がとれる場所であった。
この方向性のある岩山から石がとれる。家と岩山が同じ色。石は層状だったので採石はしやすそう。
そして丘に登って撮った集落の全景である。
いくつか建っている塔は「碉楼」と呼ばれ、チャン族の集落に特徴的な建物である。このあたりの集落では昔、防御用にこれらの碉楼を建てていた。つまり治安が悪かったのである。農地の中に家がポツポツあるのでなく村がギュッとまとまっているのもこのためだろう。
『図説 民居』という本に小さく載っていたチャン族の家の説明にも「防御に備えて塔を設ける」とある。
平面は四角形ではない
この塔の内部ははしごで各階に登れるようになっており、各階壁に穴が開いている。この穴に入ってくる風が気持ちよかった。
塔の穴から他の塔をのぞく。ここから敵を攻撃していたのだろうか。
各家の屋上はテラスのようになっており、とうもろこしを干したり太陽光発電をしたりしている。
テラスのふちはスレートで囲う
上から見ても想像できるように、この集落は迷路のようである。これも防御のためであるのだと思う。
迷路を見下ろす
トンネル状の部分もある
これは意図的にできるデザインじゃない
かなり複雑な建物の配置であるが、どうやらここにも計画は見られる。
それが足元(地下)を流れる水路である。
水路が、
暗渠化されている!
このような水路はでたらめに家を建てていてはできない。ある計画性、ルールがしっかりとこの集落の中にあるのだ。
壁は緻密な石で重く、窓は小さく、歩いていると圧迫感がある。
では家の中はどんなつくりになっているのか。
家のつくり
外部とは違い、内部には木材が多用されていた。
実はあまり写真がとれていないのだが、少しだけ。
窓が小さいからとても暗い
吹き抜け
石壁の存在感
暗いので吹き抜けがつくられる。梁は石壁にさしかけられている。結構太く、この写真から想像するに20cmぐらいありそう。
メインの構造は石壁+木の梁のようであった。
またテラス部分を見ても
トウモロコシが干されている
石壁に長い梁が架けられ、屋根をつくっている。
そして建具は木製。
この村は、観光地のために実測など細かい部分が見られなかったが、大体の構成は以上のようであった。
地震に強いのは木造軸組、という強いイメージがあったけれど、実際に壊れなかった村を見てみると、相当分厚い緻密な石壁+太い梁の家も壊れないものだなあと感心した。
さらに前述のようにこの集落では自然の危険(災害)以上に、人工的な危険(他民族などの敵)に対する工夫が見られた。
次回はこの集落の付近の別のチャン族の「壊れた」村のレポートを。
壊れた村と壊れなかった村には一体どんな違いがあるのか。
おまけ↓
家のなかに飾ってあった羊か何かの頭蓋骨。トーテム?
こういう宗教的な部分は色濃く残っている。
おそろしすぎる
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