2015年5月22日金曜日

聖なる川に、沿ってゆくこころみ

昨日、今日バイトが休みだったのでインドについて勉強していた。

千年村運動体関東班では現在利根川流域の千年村を調べているのだが、その方法をインドの聖なる川、ガンジス川に適用する試みがもしかしたら結構いけるかもしれない。

このように上流・中流・下流と3ゾーンに分ける。


インド河川流域図に加筆したもの

河川は山から海へと注ぐ。
ガンジス川はヒマラヤ山脈から、ベンガル湾に注いでいる。
山から海へ下り、様々な条件が連続してあらわれる中でいくつかの集落を見ていこうとするものである。
さいわい歴史的都市で観光地化されているデリー、バラナシ、コルカタという拠点もつくれそうで、交通の便もよさそう。

上流部はデリーより北のウッタラカンドなどの山地の地震多発地帯。インディアンプレートとユーラシアプレートのぶつかるところ。

中流部はウッタル・プラデシュ州あたりでガンジス川とその支流のつくる肥沃な平野、洪水や干ばつが多い。ここには原広司研究室が以前調査していた場所もある。

下流部は西ベンガル州のあたりで、バングラデシュの隣。洪水やサイクロンの被害が多い。ムガル朝がこの地方を征服してから、このあたりの民家の造形(=バーングラ型という、湾曲した切妻屋根をもつ)をアーグラ城などに取り入れたという文化的交流も興味深い。

そしてデリーから南、ガンジス流域一帯はヒンドスタン平野という世界一広大な沖積平野なのであり、肥沃な土地で農業が行われ、世界で最も人口密度が高い地域である。
つまり、「災害は時々あるけれど食べ物たくさん作れて住みやすい場所」ということ。
日本の利根川流域も、地質的に恵まれているところが多く、関東平野という首都圏の大居住地帯をつくっている。

大河川によって交通は昔から盛んだったし、西ベンガルに見られるような文化的交流も容易だったと推測される。

さてそれではその中でどんな場所に住むか?どんな家を建てるか?災害とどう生きるか?それが、近代的な交通や観光によってどのように変形していっているのか?
というところを見るわけである。

中流部はgoogle earthで見た限りだと河川の旧河道などによって居住地が規定されているという、日本でもおなじみのパターンがありそうだった。汎世界的な方法なんだろうな。

というように、利根川調査の方法を適用して見ていければいいな、と、インドのことなど右も左も上も下も分からなかった僕でも2日間でそこまではたどり着いた。

そして9月にはゼミの先輩がインドに来るかもしれないので、二人で調査できるかもしれない。



2015年5月19日火曜日

あの大きすぎる土地のことなど

ブログをすっかり放置していたけれど何とか元気でやっております。
この2週間くらいは中国を調べていた。
いろいろ本を読んだりしたけれど、一番役に立つ情報をくれたのは同期の中国人留学生だった。

僕は彼のことを知らなかったけど、友達が紹介してくれて、とりあえず聞いてみるか程度の気持ちで色々と聞いてみたら、
僕の視点をすごく理解してくれて、いった事のある場所とか、従兄弟が大学院生でヤオトン住居の研究をしているから紹介してあげる、とか、地元の友達に案内させてあげる...とか、もうすごく良くしてくれて、一気に旅が鮮明に現れはじめた。
中国人が優しいのか彼が優しいのかわからないけど、ちょっと感激してしまった。
もう一人友達の中国人留学生も、色々とアドバイスをくれた。
いやあ、異国の地にきて自分も大変だろうに、メールではじめて挨拶していきなり質問攻めする僕のようなやつに優しくすることは簡単なことではないよ。

そんなこんなでいろいろ調べたあと彼に行きたい場所を「提出」した。また後日スケジュールなど相談にのってくれるみたいだ。

中国の行き先は、大体6つのゾーンに分けた。

僕を誘う中国6ゾーン

・長江下流
→長江デルタと呼ばれるところ、烏鎮などの水運集落。あと園林という中国貴族の庭園がちらほら。漢民族伝統の四合院住宅から日本の寝殿造りにおける庭園についての系譜を以前調べていたことがあって(『かぐや姫の物語』の描写など含めた論で、まだ全然足りないけどいつかまた書き足したい)、一つは見ておきたい。ここはそんな長くは滞在しない。

烏鎮。まあ観光地化されています。でも人は住んでいるようだ
(http://www.nicchu.co.jp/photo/wuzhen/wuzhen.html

・四川盆地
→長江と4つの支流が流れ、周囲を山脈に囲まれているので独特の文化圏が形成されている。四川料理のところ。かなり土壌が良いようで米などの大穀倉地帯であるとともに、四川大地震などのような地震多発地帯となっている。いかに場所に住み続けるかの知恵が生まれそうな場所である。チベット系のチャン族の集落などは四川大地震の震源。

チャン族の集落。早稲田文学部がかつて研究していたらしい。
(http://minzu360.com/photos/2181.html)

・黄土高原
→黄河上・中流域に広がる高原。かつて森林が生い茂っていたが、人類活動によって森林は消え、土壌流出などなかなか悪い環境にある。砂漠からやってきた砂塵の堆積による黄土が特徴。この黄土がかつて黄河を流れ、農耕文化・黄河文明の発達を促進したのだ。地面に穴を掘って住むヤオトン住居が分布する。ヤオトンからは若者をはじめとしてどんどん「地上に」人々は進出しているらしいが、打ち捨てられた地下住居はどうしているのだろうか。山西省や黄河蛇行部には地震帯もある。

ヤオトンの航空写真。

このように地下を掘り、そこからさらに水平方向に掘ったところが居住空間となる。夏は涼しく、冬はあたたかいという人々の知恵。これは下沈式というもので、ほかに崖をそのままくりぬいたものとかある(むしろそっちが最初な気がする)。(http://www2.odn.ne.jp/~t-nakazawa/trip/chi_p2.html

下沈式ヤオトンの図面(http://www2.konan.ac.jp/weblog/inaba/yao-takoshasin.htm)。

ヤオトンでは湿気との戦い(壁一面に新聞紙貼ったりする人もいるらしい)とか、四合院住宅の平面との関係(四合院の中庭に樹が植えられないのは、ヤオトンにはじまるからかもしれない!)に興味がある。あと、打ち捨てられたヤオトンたちの活用法。

これが四合院という漢民族の住宅。軸があり、左右対称。
(http://www.geocities.jp/ziyun8689/siheyuan.html

・タクラマカン砂漠(タリム盆地)
ウイグル語の「タッキリ(死)」+「マカン(無限)」で、生命の存在しない死の砂漠。ここに点在するウイグル族のオアシス集落。かつてのシルクロード沿い、文化の交流点。カレーズという地下水路を引いて集落を潤し、農業を行う。水の大事さが日本とはまったく違う。ウイグル住居は、外部の使い方が面白そう。夏は、外で寝るらしい。いまも砂漠によって集落がつぶれそうになったりしている。砂との戦い。砂の女。砂の中の労働。ここも天山山脈、クンルン山脈、パミール高原、カラコルム山脈に囲まれた孤島のような存在。盆地は孤独で、島と似ている。かつて海だった。シシカバブは絶対においしい。

真ん中のぽかんと空いた砂漠がタクラマカン。

ウイグル族の村(http://tabinomanimani.blog24.fc2.com/blog-entry-197.html)


・東チベット
→ガンゼ・チベット自治州のあたり。四川省の西の方。標高4,000mくらいで、ここにある「ラルンガルゴンパ」というチベット僧の修行の地は、宗教に生きる人々の暮らす映画のような場所で、是非行きたいと思っている。ラルンガルゴンパのチベット僧の家は、なぜか全部真っ赤だ。

ラルンガルゴンパ。厳しい土地に寄り集まって暮すチベット人。

・メコン川流域(雲南省)
少数民族の多い雲南省は高温多雨でほとんど東南アジアのような気候。ここに日本の米の源流があるという説も。日本の神社の鳥居に似たものや、似たような風習があるらしく気になる。タイ族の高床住居集落などは有名。四川省のチャン族と雲南省のハニ族、ラオスのアカ族の系譜がある。民居に見られるか。

タイ族の集落。確かに日本の原風景といった感じがしないでもない。
(http://rafale.kais.kyoto-u.ac.jp/worldagr/yunnan3.htm


この6ゾーンを主眼に見ていきたいのだが、こう見ていると僕の目は漢民族以外に向いているようだ。いや園林とか四合院、ヤオトンなど中国伝統の漢民族の方面ももちろん興味があるものだけれど、あの大きすぎる土地の周縁に惹かれる。中国人と「されている」人々と、その土地。
中国の旅は幾分ノンマンダリントラベルになりそうだ。

旅の準備をしていて家にあったタブレットに地図をバンバン入れて持ち歩こうと思い、試みてみたらこれは相当に便利かもしれない。地球の歩き方とか、本もスキャンしてバンバン入れていける。
地図は、色んな地図を見れるサイトがちらほらある。
中国の地図はこのサイトがすさまじかった。地質図、土壌図、土地利用図、ハザードマップ、過去の地震のプロットなどかなり高精細に見れる地図を無料でゲットできる。
これらをタブレットでいじくりまわしながら「人がいかに住むか」を現地で学べるわけである。


今は中国は一段落したので、インドの予定も立て始めている。右も左もわからないからとりあえずwikipediaの「インドの地理」の項目を見ている。ヒンドスタン平原の肥沃さ。
インドではどんな屈強な男も必ず腹を壊すという。まして万年腹の弱い僕のことである。最近友達ん家で食べたマグロで食あたりをしたのだが、死ぬ程つらかった。こんな感じが続いたら生きていけなさそう。内臓アップデートをしたい。


あ、そういえば6月11日に出発することになった。航空券をとった。茨城空港という非常にマイナーな所から上海まで飛ぶ。何か大きな事件が無い限り11日にさよならです。
といってもインドまで行って10月に一度帰ってくるのですが。


いくら準備が忙しくても小説は生活から排除してはいけない。
安部公房の作品をまとめて入手したのでまたも彼の『終わりし道の標に』読んでいる。
でもそればっかりじゃなくて笙野頼子の『母の発達』を借りた。面白そう。



いまバイトの夜勤明けでこれを書いている、このくらいにして眠る。
今朝はかなり冷えている。

2015年5月4日月曜日

膝をかかえて泣いている

今年から設計事務所で働き始めた研究室の先輩と、久々に山に登った。
山梨の大菩薩嶺である。

登山が趣味などと言えるほど頻繁にやるわけじゃないんだけど、卒論で神社を調べている時にひとりで熊野の山々へ分け入っていったことにはじまり、時々登ったりする。

我々のする登山は近代登山である。
つまり何らかの必要にかられての登山ではなく、娯楽やスポーツとして。

中世熊野詣りなどの信仰心があるわけでもなく(彼らもほとんどノリだったと思うけど)、ましてや修験者のように修行に行くわけでもない。村から村へ、移動するわけでももちろんない。

いま、登山者は毎日我慢して都会ですり減らした精神を抱え、人間性を回復させに山へと向かうのである。そう考えると、(もちろん自分も含めた)登山者はやっぱり滑稽だなあなんて事を話しながら中央線に揺られた。
朝早くの中央線は、人間性の回復を求める都会人でいっぱいだ。
我々はかつて住んでいた自然の中へ定期的に戻らなくちゃいけないのだ。

近代の目指した自由とは、かつての自然へと一時的に(安全に)帰っていける状態かもしれない。

結構な電車賃をかけて、登りはじめ、そして登頂(いきなり)。

大菩薩峠からの眺め。色々言ってもやっぱり気持ちいい。下界が相対化される。

甲府盆地を見下ろす。奥に南アルプス。これが壁のように聳えているのを発見したのが大きな収穫であった。富士山よりかっこいい。

山頂で飲むコーヒーはやっぱり格別であった。
大菩薩嶺は全然難しいルートじゃない。それでも9時頃登山口を登り始めて下りたのは4時近くだったから7時間くらいは歩いていたのだった。
帰りには大菩薩の湯という温泉にも浸かって、地球と一体化してきた。

かっこいい枝振りに注目したり


実は僕は膝が悪く、半月板を損傷している。
なんか膝のクッション的な部分がアレで歩き続けるとアレのやつだ、痛くなるやつだ。登山者にとっては、終わりだ。
昨年秋に丹沢に登った時も下りではかなり痛み、今回も下りは相当痛かった。

この半月板損傷がこれからの旅行でもかなり不安なことの一つでもある。
4月に大学で健康診断をした時に保健おばさんみたいな人に相談したら、

ぼく「半月板が痛くて怖いんですけど」
保健婆「これ中途半端な情報なんだけどね」
ぼく「はい」
保健婆「なんだったかなあ…こないだね、暮らしの…手帖?かなんかでね、書いてあったと思うんだけど…半月板は手術じゃなくて、最近じゃ何か、なんだろう、ヒアルロン酸?か何かを膝に注射で打つと再生する?みたいな記事を見た気がするのよねえ……」
ぼく「(中途半端な情報だ……)」

という感じだった。

でもこないだ日経新聞で同じような記事が載っていて、本当に注射で半月板を再生させるみたいな方法が成功してきているらしい。治験の段階なんだとか。これに期待して今年は我慢することにしよう。

膝が痛み出したのは熊野で山中に分け入っていた時からだった。
そのとき帰りに寄った名古屋の台湾ラーメン屋台にいたおばさんに、
「あんた熊野の神様に嫌われたのよ」
なんて言われたっけ。
神社の本殿裏とかに入ったりしてたから、この言葉半分信じているんだけど。


半月板損傷という登山者の終わりと同時にぼくの登山がはじまったということ。
致命的であるが、運命的である気がしないでもない。

2015年5月3日日曜日

断絶した未来—『第四間氷期』

安部公房『第四間氷期』を読んだ。

23年間生きてきて自分の中にべっとりとこびりついた"保守の心"を告発され、ズタズタにされた気分だ。
裏表紙のあらすじはこうなっている。

現在にとって未来とは何か? 文明の行きつく先にあらわれる未来は天国か地獄か? 万能の電子頭脳に平凡な中年男の未来を予言させようとしたことに端を発して事態は急転直下、つぎつぎと意外な方向へ展開してゆき、やがて機会は人類の苛酷な未来を語りだすのであった……。薔薇色の未来を盲信して現在に安住しているものを痛烈に告発し、衝撃へと投げやる異色のSF長編。

個人的に安部公房の作品の中でもかなり面白かった。「事業」や「鉛の卵」、「人肉食用反対陳情団と三人の紳士たち」、「月に飛んだノミの話」などの短編の中に見られるイメージが思い起こされる。

以下少しネタバレになるかもしれない。

未来の人類の姿を機械によって予言させようとすると、想像を絶する未来—陸地の減少に伴う水棲人類開発、やがて海に戻っていく人類たちの姿が語られ、そして最後に遺跡としての陸地の都市=東京が、水棲人の目から描かれる。そのような、「断絶した未来」を聞いて、我々はそれに耐えられるか……
安部公房の特徴である日常SF(ぼくがかってに呼んでいる、はじめから設定がぶっ飛んでいるSFではなく、日常の中からあたかもあり得るもののように科学的にぶっ飛んでいきながらいつも日常とのつながりを忘れさせないようなSF)としての完成度がものすごく高い。正直、怖いぐらいだ。

この小説の持つテーマ——人間の保守性と革新性、についての「告発」が、ものすごく痛かった。予言機械を開発しておきながら、圧倒的な未来予想を受け入れることができない博士を、しんからの保守主義者だと告発する人々。自分のことを言われているみたいで辛い。誰にでも、保守的な面はあるし、もれなく自分にも、そういう点が多分にあることに気付いているからだ。

ここではあらゆる未来を描いた小説、それがユートピアであれディストピアであれ、それらを超越し、相対化した未来を描いている。「あとがき」で安部公房はこう言う。

 真の未来は、おそらく、その価値判断をこえた、断絶の向うに、「もの」のように現れるのだと思う。(「あとがき」より)

それは、たとえば室町時代の人が現代を見たときに地獄と思おうと天国と思おうと、それを判断する資格がないということ。それを判断するのは現在であるということ。
同じように未来は現在によって裁かれるのではなく、逆に未来が現在を裁く。それがどんなに発展していようと、現在の日常の連続性の中から見たら、それは異質なものに見え、苦悩をひきおこすものでしかない。

安部公房の小説で「あとがき」があるのは珍しいのではないか。それだけ伝えることがあったのだと思うし、同時に「断絶した未来」の残酷さからは、彼でさえ逃れられないことを弁明する必要があったのではないか。

 読者に、未来の残酷さとの対決をせまり、苦悩と緊張をよびさまし、内部の対話を誘発することが出来れば、それでこの小説の目的は一応はたされたのだ。(「あとがき」より)

未来を、「じゃあどうするの」といわれてもわからない。そこが、本音だろう。
「断絶した未来」が本来的に残酷なものであるとしても、いずれ未来はやってくるのだ。

それでもこの誘発は少なくともぼくにとっては有意義なものであった。

自分の問題に引き寄せて見れば、たとえば都市化していくことの、是非。
保存され、テーマパーク化される、伝統建築、伝統集落。未来を受け入れられず、保守的なデザイン、提案に留まってしまう、あるいは革新性を装った発想と、その実現に耐えられるかどうかの不安……。

誰もがもっている保守主義者としての一面を、切り裂くような告発だった。

日常性というこのもっとも平凡な秩序にこそ、もっとも大きな罪があることを、はっきり自覚しなければならないのである。(「あとがき」より)

小説とは時にこんなにも厳しいものなのか。


過去の「保存」はどうだ。
この小説の中でも、水棲人はやがて陸地人の一部を保存しはじめる。
「鉛の卵」という短編では、体内に葉緑体を搭載した植物人間が、かつての人類を保存している……と思いきや最後の最後に立場が逆転する。(これは『第四間氷期』の後の世界にありえそうな話でもある)
ハクスリーの『すばらしい新世界』でも、かつての人類を野蛮なものとして隔離し、保存地区のようなところに住まわせている。

それと同じように、我々も今、例えば中国の少数民族とその建物、文化を、観光地として保存している。彼らが、金を持つようになって、自分たちの生活に近づこうとすることを残念がるのが本音なんだろう。

それはもしかしたら、すでに「断絶した未来」に行ってしまった自分たちを、どうにかして過去につなぎとめておくための標なのかもしれない。

人を殺したら悪いのは、それが相手の肉体を奪うからではなく、未来を奪うからなんだ。(p.264)

とすると、我々はそういう人たちをすでに殺しかけていると言えるのかもしれない。