2015年4月27日月曜日

オタスケ・マーチ

安部公房の『カンガルー・ノート』を読んだ。
テーマが死ということもあってまだ早かったかな...と思う。
ドナルド・キーンの解説にいろいろ持ってかれてしまった気がしないでもない。

脛から<かいわれ大根>が生えてきた男が医者に行ったらベッドにくくりつけられ、その自走するベッドと共に色々なところを巡る話。
部分的に連続する夢のような景色の連続。特に賽の河原の場面は印象的であった。

オタスケ オタスケ オタスケヨ
オネガイダカラ タスケテヨ

という「お助けクラブ」のオタスケ・マーチが以後鳴り響く。

この小説は安部公房最後の長編と言われているが、『箱男』とか『砂の女』のように、寓話として捉えようという気さえなくなるような夢の連続、といった感じがした。そこが違う気がする。
でも人生って本当はそんなに分かりやすいものでもないのだろう。

その中でもベッドやカンガルー、下がり目の女(A・B・C)、かいわれ大根などの一貫した存在はある。安部公房が病室のベッドでこれを書いていたとしたらやはりこれは夢の話で、夢の中を旅して起きたらベッドにいることの連続だったんじゃないの(小説でも場面と場面をベッドがつなぐ)。病床で書いていたとしたら終わり方がすごい。

<かいわれ大根>は主人公の負い目である。この負い目のために主人公の行動はなかなか制約されてしまう。憧れの下がり目の女に積極的なアプローチもできない。そういうものが体にずっと寄生しているという感じはわかるけど、<かいわれ大根>の自生が「カンガルー・ノート」のアイディアを提出してすぐに始まる、というところがわからない。
ドナルド・キーンの推測によれば主人公は安部公房の鏡映し。真獣類に対する有袋類。ネコとフクロネコのような。そこに<かいわれ大根>(=負い目)自生のヒントがありそう。

わからない小説なんてのは、皆どのように自分の中で片付けるんだろう。僕は自分の中にいつまでもゆらゆらしている感じがして、わからなくてもとりあえずノートに色々書いてみる。書いてみると分かるかというとそうでもないのだけれど。

まあわからないから来年あたりまた読もうと思う。

僕はまだ、本当は死を意識したことなんてないんじゃないかと思う。


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