□1800年前の古墳にたまげる
敦煌莫高窟を堪能したあと、隣の宿の日本語を話すおっさんに「建築を学んでいるなら絶対行くべきだよ」と言われ、その存在を初めて知った「西晋壁画墓」を訪問することに。これがまた圧倒的だった。
マイナーな場所らしく、見学者は僕一人、あとから中国人一家が来ただけだった。
外観
西晋壁画墓は西晋時代(3世紀ごろ)の古墳とされる。地下の玄室には棺が置かれていたらしく、誰だかわからないが珍しく夫婦で埋葬されていたという。
その玄室がたぶん地下10m以上はあると思うんだけれど、玄室の空間とそこに至る壁面に磚(レンガ)が敷き詰められており、そのレンガにたくさんの絵が書いてある。1800年前の人々が描いた絵である。青龍・朱雀・白虎・玄武の四神をはじめとして仏教的な蓮華なども描かれていた。
日本の古墳時代に高松塚古墳やキトラ古墳に描かれたものの原型がここにあるんじゃないかと思うと、あんな遠くまでよく伝わったなあと思う。いまYahoo地図で直線距離を測ったら敦煌〜奈良間は約3800kmであった。
今回も基本的に撮影禁止の場所だったので写真は少ないけど、玄室に向かう階段正面(階段は観光用に整備されたもの)の写真だけ撮ることを許された。
こわい
階段の正面に絵の描かれたレンガが積まれている面がそびえている。
感動します
ちょっと拡大。"レンガを使ってどこまで装飾できるか"という遊びにしか見えない。
写真じゃ伝わるかわからないけど、古代人の装飾への情熱がもう突き刺さるように伝わってくる素晴らしい空間であった。ちなみにここの古墳で使われるレンガの構造には一切練り物が使われていないらしい。玄室は約4m四方の部屋であり、その天井がドームになっていて(正確にはドームになろうとする過程みたいだった)、そこにも練り物が使われていない。古代人かっこいい。
1800年前の人々が、誰かのためにつくって、土の中に埋めてしまった空間に1800年後の人類である僕が簡単に入ってしまうという、この罪悪感と感動の作り出すソワソワ感…これが古墳に入るときの感覚である。
これは展示室で見た写真。玄室ドームの頂上に描かれた蓮華。ここ練り物をつかっていないとは信じられない。
□現在も埋められていた
さてこの古墳の周りにはゴビ(砂だけじゃなく石とか色々が茫漠と広がるところの総称)が広がっていて、なんとそこには現在もたくさんの墓が点在しているのであった。
ポコポコと、ゴビの墓の群
まるでモンゴルの平原に広がるゲルのように点在する、円錐の墓群
これは面白い。
何も建てられない不毛な地であるから墓をつくるぐらいしかないのだろうか。
でも聞いてみればここにこういう墓が作られたのは30年前くらいかららしく、もっと古いものはここではないゴビにあるらしい。
最もわかりやすい構成のものをとにかく描いてみる。とにかく描くことで、何かわかるものである。
実測した墓
実測した墓のストゥーパ
当たり前だけど日本の墓より遥かにでかい敷地
円錐のストゥーパの地下1.5mくらいの深さには棺が入っているという。
敷地は明確に囲われており、おっさんに聞くと同じ家族はこの中に一緒に入るという。
実測した墓横から
敷地は四角く、墓は丸い。
(おそらく)貧乏な墓はレンガでストゥーパを覆うことができていない。
(おそらく)貧乏っぽい墓
聞けばこれはみんな仏教徒の墓だという。
横たえられた墓石
茫漠としたゴビの中でどのように境界をつくるか?
一度レンガや砂を盛り上げると、そこに自然と風で砂が集まってきて境界になっているようだ。
結構美しい
明確な境界はつくっているが、どのようにこのゴビの中で土地を分けているのかはよくわからなかった。というより、まだまだゴビは広がっているので、土地の範囲は大体でいいのだろう。
そもそも中国では土地は「政府」のものなので(一部農村では私有があるとかないとか)、このゴビに地下資源が発見されれば開発の対象となり墓は立ち退かざるをえなくなる。墓だけでなく、中国と日本の大きなちがいはその土地の所有にありそうだ。
ちなみにおっちゃんは砂漠の近くで農業をしていたが、砂漠が観光対象となると政府がその周囲の土地を整備しはじめたので農業が続けられなくなり、今は宿を経営しているというわけである。(いまでは案外楽しそうにDIYで内装工事をしていたけど。)
うーん、日本の私有制にも問題はあると思うけど結局土地をだれのものとするのが一番良いのだろう。とにかく政府によって職を変えさせられるのはいかがなものかと思う。
吉阪隆正の「人工土地」というものは単なる土地不足の問題に対する提案ではなく、この土地所有制とその矛盾から生まれる人間や国家間の問題の解決に向けた提案だったに違いない。
とにかく1800年前につくられた墓の上に現在の人々が墓をつくっているのは面白かった。
日本の、例えば群馬県でも古墳の上に墓石めっちゃ立てている村とかあったけど、やっぱり"墓に向いてる土地"ってのがあるんだろうか。墓の問題は、死者をどうとらえているかが現れるから面白い。
敦煌で、家族が死者を祀るために自分たちの腕でつくりあげる粗末な墓を見て、つくづく日本人は祀らされているだけだと思った。
自分の大切な人の墓を業者に任せるって考えてみれば結構怖いことで、1800年前のようにものすごい労力を投入して、とは行かなくても自分の手でつくること、それを続けている敦煌の人は偉い。
さて敦煌での滞在は短かったのでこれで終わり。最後に何枚か写真を。
西晋壁画墓に向かう途中の並木道、おそらくポプラ
砂漠のオアシスらしく、町中には河が流れている(流量すごかった)
入場料をケチって入場しなかった鳴沙山。
お金のある人はこんな風景が見られるらしい(画像検索しました)
はたらくラクダたち
鳴沙山に入るとラクダに乗れるらしい。これから西域に行けばラクダ乗れるだろうと思っていたけど結局乗れなかったから完全に後悔している。
肉を焼く回族たち
西域の入り口らしくケバブがたくさん売られている。外に設けられた席でみんな食べる。
敦煌のよるめし
ロバ肉の乗った麺と少しのケバブ、ビールをいただく。ロバ肉はうまくもまずくもなかった。
公衆トイレに貼ってあるシール。「一歩前へ出ること、それが文明の大きな一歩となる」みたいな感じか?
次回は敦煌から灼熱の町トルファンへ、一番安い列車に乗ったときの話を。
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